Preface

 

Americana.It started as a flichering light sending black-and-white images through an old movie projector. Faces of cowboys and Indians, superheroes, the good guys victorious over the emissaries of evil. Then as I grew the music took over. Rock jazz skiffle... the blues... and country soungs came to liberate me, a North Londoner, growing in up in the austerity of post-war Britain.

the music game me hope and a feeling that I could express my self in song through this new art form called rock and roll. Then, as I toured America with my band, I saw the plase first hand and up close-from the roadside of a dreary bus stop in the middle of nowehere to the Hollywood Bowl as we experienced both good times and bad times.

 

序文

 

アメリカーナ。それは古い映写機によるチカチカしたモノクロ映像のように始まった。カウボーイ、インディアン、悪を退治したスーパーヒーローの顔。その頃、私は音楽の洗礼を受けた。ロック、ジャズ、スキッフル…ブルース…カントリーといった音楽は、戦後英国の厳しい環境で生きていた、北ロンドンっ子の私の心を解き放った。ロックンロールと呼ばれていた新しい芸術は、私の気持ちを見事に歌っており、希望を与えてくれた。

アメリカでのバンドツアーで、

好きな「格闘技」なんかある?
 

まず、ぼく自身はまるで格闘技について知らないので、好きな格闘技はない。

 

だが、格闘技はアートの世界で生きる人々を魅了するようだ。古くは寺山修司、近年ではライセンスを持っている片岡鶴太郎に香川照之。それくらいしか知らんかった。

 

もう一人見っけた。北野武も大のボクシングファンで、ボクシングを題材にした「キッズ・リターン」を残している。

あるノンフィクション・ライターが北野武にボクシングの魅力について取材する際、ペラペラ雑誌を見ていた武に「好きなボクサーは誰ですか?」と聞いたところ「○○かなあ」(どマイナーなボクサーらしい)と答えた。偶然調べておいたボクサーの名前が出たので彼のスタイルなどを述べると、ついに武が顔を上げて話に乗っかってきた、そうです。

 

そんなエピソードがあるくらいなんで、ボクシングファンは厳しいしうるさい。物珍しさで覗きに来る人間を寄せ付けない空気がある。なぜかといえば、これはぼくのイメージだけれども、泥臭い娑婆から這い上がろうとする人間が打ち込んでいるからじゃないだろうか。もちろん今はそんな人なんていないかもしれないけれど映画「ロッキー」や「ミリオンダラー・ベイビー」、それに先述した「キッズ・リターン」の主人公は、うだつが上がらない現実に対峙しながら、ひたすらボクシングに打ち込んでいく。それでも、栄冠を手に入れることはできない。寺山修司の「ボクサー」て映画もあったけど、あれは若者の苦悩とボクシングを直結させた泥臭い作品だった。

 

プロレスや大相撲はエンターテイメントに訴えた戦略が奏功し、一時の凋落から盛り返してたくさんのファンを獲得した。だが、ボクシングはそうした気配もなく、テレビで放送するようなゲームも小さな会場で催されている、ような気がする。我々が目にする機会がある格闘技の中では、真剣勝負の度合いが非常に高い(ように見える)スポーツなのではないだろうか。

 

不思議なことに元プロボクサーにはユニークな方が多い。渡嘉敷勝男、輪島功一、具志堅用高、それにもっと古いけどたこ八郎。命にかかわる殴り合いの頂上にいながらにして、軽妙で楽観的な姿勢には魅力を感じる。

 

多くのスポーツは古代ローマにあったコロシアムの延長だ。ぼくは、スタジアムに囲われた中で野球選手が野次を飛ばされながらプレーしている姿はやや酷であるとわきまえながら見ているのだが、ボクシングはそのラインを遥かに超えている。その残酷さにぼくは気軽に身を置けないのだが、常に生死を感じ取って生きる人にとっては、得難い刺激になっているんじゃないだろうか。

 

イマジン・フォー・ザ・ボクシング。適当に書いてすみません。

 

10代のときには意識下にすらなく、20代になると惑い、30代にしてだんだん分かってくることがいくつかある、気がする。

 

例えば人と付き合うこと。子どものときは、仲の良い友達に呼ばれれば遊びに出て、苦手な友達に呼ばれたときは逡巡し、ウソをついて断ったり、しゃーないから途中で抜ける方策を考えつつ、仕方なく一緒に遊んだりする。しかし、このときの思い悩むという行為の正体がよくわからなかった。

 

20代になると、断りづらい付き合いがだんだんと増えてくる。年功序列や仕事の上下関係、それにお金を払った払わないといった要素も絡んでくる。そして、無駄な時間を費やすことに疑問を感じ始める。人生は有限で、さらに若い時間の執着ゲートまであとわずかなのに、どうしてこんなことをしているのか。そしてそのことになぜこれほどとらわれなければならないのか。

 

いろいろ本を読むと、同じことに悩む人間がいっぱいいることがわかってくる。哲学者のカントは、人間は友人といる時間も、孤独な時間も両方を必要とする性癖があるとし、自身は毎晩のようにパーティーを開いて友人を招き、21時(だっけ)になるとどれだけ盛り上がっていても全員を締め出し、寝る前の孤独な時間を存分に楽しんだらしい。実は、このように人との付き合いを割り切る人は今でも存在する。

 

自分をよく省みる。会社に行くと、仕切りのない広々としたスペースに20人くらいの人間がおり、常に目に入る。電話が10分に一回くらいのペースでがなる。そこにいるときは気づかないが、休憩しに外へ出ると、肩に力が入っていたことに気づく。家に帰れば、前身が緊張していたことにも気づく。当然、次の日の朝は足どりが思い。つまり、1日のうち9〜10時間も大勢の人間がいる環境を、週に5日も過ごすことはぼくにとって楽しい時間とはいえない。仕事が楽しいわけないだろ、我慢してんだよね俺っちは、と言いたくなる向きもあるだろうが、恐らくぼくの場合はそうした思いを抱く人たちの平均以上にこの状態を嫌がっている。だから、1年も経たずに辞めた。しかし上には上がいるもので、もっと敏感な人であれば3日ももたないだろう。それは、体育会系的な我慢とは別の次元である。つまり、自分にとって無駄な時間が多すぎる、と感じているわけだ。

 

1人の時間が数日集中すると、普段考えたいことが整理され、よくつながる。思考が無垢になるような感覚だ。しかし、孤独で居続けては承認欲求を果たすことができない。それは、ちょっとした会話である程度消化できる。また、人と会うことである程度のストレスを体内にもたらさなければ、孤独における思考が価値を持ってこない。これは、ぼくが崇高な大人物にはなれない、凡人であることの証でもある。

 

人に誘われたときは、孤独な時間を楽しむことの貯金と思って割り切る。それでも我慢が面倒だなと思ったら、ちゃんと断る。お金ももったいない。無駄なことに散財することは大きなストレスになる。仕事も減らそう。収入が7割になったとしても、毎日人と会わなければならないストレスから開放されると思えば、いい取り引きだ。

 

30代になってわかったこと。「人との付き合い方」ではない。「なぜ人と付き合うか」の理由がちょっとわかってきた。共感とか近況を知るとか、そういったこともあるかもしれない。だが、ぼくにとってはマイナス面もかなり大きい。自分の愚痴だけ言って別れる人が随分増えてきた。それでも、それが自分にとって必要な理由がある。清濁併せ呑む覚悟で、人と会おう。疲れたり傷ついたりしながら、自分独りの楽しみ方が見えてくる。

 

 

2017年12月23日、小学4年生の勉強指導スタート。

・持ち時間は1時間

・主に算数の文章問題

・9マス計算の掛け算と足し算を最後にこなすよう提案。計算を正確に早くし、ほかの教科に時間を割くことが目的。あと時間を計ってゲーム性を出す。1問間違えたらペナルティ5秒。

・自分がいない日は、計算ドリルで簡単な問題を毎日解く。1ページを丁寧に見直して、100点を目指す、というのが理想だが、姉は4ページやらせるつもりらしい…。毎日写真で送ってもらう

 

2018年1月14日

文章問題の問題文そのものが理解できないようなので、塾のホームページなどを見て勉強法をまとめた。

・自分が主人公の話に置き換える

・ビジュアル化(グラフ)にする

・音読

・あいまいな言葉の意味を調べる

 

<問題>

一人160円の動物園にクラスで行きました。クラスは33人ですが、3人が休みました。全部でいくらかかったでしょう。

 

・まず音読してもらい「何を求める計算なのか」、線を引いてもらう。

何人が動物園に行ったかまではわかるが、次にどう計算したらいいかわからない。そこで、数字を簡単にし、家族の話に置き換える。

 

<置き換えた問題>

一人100円の動物園に家族4人で動物園に行きましたが、パパが風邪をひいて休みました。全部でいくらかかったでしょう。

 

これはすぐに解けたので、本来の問題に戻ると、すぐに計算式を置き換えて答えが出た!

 

文章問題は一度正解しても、すぐに忘れやすいので、暗記でもいいから一発で解けるのが本人の自信にもなるはず。ということで、来週以降も今回こなした文章問題3問を、一発で正解できるまでやる。

特に音読は効果があると実感。勉強に集中する環境ができる。

割り算のドリルは毎日間違えまくり。テレビを見ながらやってるらしい。

 

足し算…2:58

掛け算…2:11(1問不正解)

 

2018年1月21日

動物園の問題が早くも一発で正解!もう一つの掛け算の問題もできたが、前回からやっている割り算の問題に大苦戦。

 

<問題>

90個の缶詰を、縦に5個、横に3個入る箱に入れていきます。全部でいくつ箱が必要でしょう。

 

箱にいくつ入るかまではわかるが、90×(5×3)や、90+(5×3)のようにしてしまう。割り算がどういうものかを説明するのが難しい。

テクニックとして、掛け算や足し算にすると、明らかに違う数字になることを説明しようとしたが、ますます混乱してしまった模様。余計なことは教えず、問題に誠実に向き合う方が本人に向いているようだ。

 

まずは簡単な数に直し、ビジュアルで解けるレベルに下げて説明した。

 

<問題>

たかしさんは一周450メートルのトラックを、昨日4週走り、今日は6週走りました。合わせて何メートル走ったでしょう。()を使って一つの式にまとめなさい。

 

子どもの答え

450×(4×6)

どうも「昨日」「今日」とされると「足し算」という気がしないらしい。ひっかけ問題なのかな。これを「午前」と「午後」にしただけで正しい式(4+6)にできた。

 

学校の新しい単元を予習。表を丁寧に数えてグループ分けするもの。

<例>

男 なわとび

女 けいどろ

女 なわとび

男 竹馬

 

この表を見て、なわとびを選んだ男女は何人でしょう。

 

みたいな問題。実際の表はかなり複雑で、大人が数えてもミスする可能性がある。

案の定数え間違えが多発したので、必ず見直すよう注意。すると、だいぶミスを発見した。数え方もいい加減にせず、鉛筆で表をチェックしながらするよう提案。

 

ドリルも見直し中心にするよう姉に要請し、4ページ→1ページに変更。

 

足し算…2:48

掛け算…2:23

両方ともノーミスで、本人大喜び。姉に自慢するほど。勉強の楽しさを感じ始めたぽい。9マス計算が楽しみらしく、集中するために弟にちょっかい出すのをやめるよう言うほど。

 

2018年1月30日

風邪を引いていたがなんとなく気になったので無理くり行く。

学校で表計算のテストがあったらしく、初めて100点を取ったとのことで狂喜乱舞とのこと。見たら見直して計算し直した箇所がいくつもあり、見直しするよう言ったことがだいぶ効いてる。

 

苦戦していた割り算(缶詰)と掛け算(トラック)を一発でクリア。次回は別の文章題を探してチャレンジさせる。同じような問題でオリジナルを作り、さらに自信を深めるのもいいか?

 

進研ゼミのテストで国語の文章題がだめだったそうなので、今日は国語の物語を勉強。

心情を表す言葉を理解していないことがある(ポジティブな意味かネガティブな意味かわかっていない)。その場合はスマホで意味を検索する。

釣りの話で「岸に上げる」「下流に向けて引っ張る」など難しい表現が多かったので、youtubeで釣りの映像を見ながら説明した。だいぶ理解できたぽい。

 

足し算…3:01(3問不正解)

掛け算…2:34(4問不正解)

計算は早くなったが、今回は終盤に間違えが多かった。

 

 

 

婚活アプリは女のプロフィールを見ることができるんだけど、写真、コミュニティ、プロフィール文がどれも定型かってくらい似てるんでビックリしたね。毎日同じ女を眺めてる気分になる。

 

・写真

ディズニーランド

海外の素敵な景色

 

・コミュニティ

一緒に笑いあっていたい

 

・プロフィール文

カフェ巡りが好きです

 

これは冗談でなく、ぼくの体感では8割くらいの人がこんなプロフィールの傾向にある。年収も対して変わらない。そうすると利するのは顔写真であり、よく写っている女にはいいねがどんどん集まる。

 

美人には男が集まってくるから、彼女からしたら男をより好みができるわけで、そうするとお金を持ってるとか、顔が井上順に似てるとか、自分の趣向に沿った相手とつながることができる。そうなると私の出る幕はない。

 

では、しゃーない。自分の入っているコミュニティと符号する女性をソートしよう。

ぼくは一緒に笑いあっていたい、とか、カフェ巡りが好き、みたいなコミュニティには入っていない。試しに、レコードが好き、というコミュニティに入り、同じ趣味を共有している女のプロフィールを見てみた。すると。

 

・写真

ベレー帽、丸メガネ、首にかけたカメラ、みたいな自意識過剰ベース

 

・コミュニティ

レコードが好き

 

・プロフィール文

表現力が優れた、そんな男性と知り合えたらなと思います

 

みたいなことが書いてあるのだが、そういう女に限って

 

・初回のデート費用

男が多めに払う

 

としており、プライドの高さがよく表れている。

 

 

当たり前だが、女性の中でもマジョリティとマイノリティがあり、基本的にマイノリティというのは、マジョリティとの差別化を図りたいという意志が透けて見える。婚活アプリは人間の位置づけが一望できる、優れたソサイエティ・マップである。

 

余談だが、女性が入っているコミュニティとして「店員に敬語を使える男性が好き」というものも随分見かける。

他人に求める前にてめえが実践してればいいじゃん、と思うのだが、女性からすると、いわゆるDQN、またはエグザイル系を避ける指針としてこれを表しているらしい。

 

しかし、こうしたコミュニティには何千、何万人が入っており、しかも8割が同じプロフィールなので、ピッタリな相性の女性を見つけることは困難である。お互いが理想の相手とつながるためには、自分の性格や好きなものを掘り下げ、コミュニティを細分化する必要がある。

 

人を殺さない人が好き 殴るよりも投げる人に憧れる 歯ブラシは固めに限る 家具は全部ダンボールで作る 演歌のCD1000枚持ってます タイムマシンがあったら風船おじさんを助けたい 赤ペン先生に逆ギレしたことがある 共和党支持者です 玄関にローマ方法の写真を貼ってる NHKには受信料を多めに払ってる

 

よく考えよう。自分が本当に人と違う、何かがあるはずだということを。

 

 

JUGEMテーマ:映画の感想

 

「ムーミン 南の海で楽しいバカンス」という映画が数年前やってまして、ぼくは平成ムーミン(楽しいムーミン一家)を見ていたので興味あったんですけど、男一人で見ると怪しいシロモノなので、こうして家でAmazonビデオで見ているわけです。

 

見ていて不思議なのが、何も起きないな、おかしいな。そう思っているうちに終わっちゃったよ、というのが最初の感想で、なんでだろうなーと振り返ったら、ムーミンたちのしていることは明らかにおかしいんだけど、自覚がない本人たちがツッコミをしないからなんじゃないか?

 

日本アニメ時代から、たしかにおかしかったね。パパとかね。とはいえ、パッケージにもなってるフローレンの水着姿ですけど、これ着けたときにムーミンが

 

「それじゃほとんど裸じゃないか」

 

言うたんですけど、普段どこに目を付けてんねーん、と言いたくなるね。

 

そのほか、ホテル暮らしに飽きたママが

 

「私は外に出てボートの下で暮らします」

 

言うのもすごいね。どこまで下野しとんねーん。そうした出来事がズドドドドとダイ・ハードのマシンガン並に連射されるんですけど、だーれも何も言わない。塩っぽく物語は進んでいく。

 

これを見て今更気づいたのは、映画というのはツッコミがあって初めて成り立つということ。本作にツッコミが入らない、という指摘は検索すると結構あるけど、逆に他の映画はどうなんでしょうね。たいていはあるよね。セリフの中には、人間性の表れとして矛盾するような発言をして、スクリーンの空気が変わったり、ほかの人物が反論したりする、これがツッコミの一つだと思うんですが、ムーミンはこれもほとんどない。

 

「難破船だわ。お宝をいただきましょう」

 

とママが行ったら誰も反対せず乗り込む。「ドラえもん」なら、のび太が「やめようよ、怖いし」て言うでしょ。これがツッコミですよね。ここで初めて、あ、やばいところなんだな、と見てる方が理解できる。そうした観客へのガイドラインを提示せず、情報を平面化しているのが特徴だと思いますね。

 

本作の声優に、コントでツッコミだらけのさまぁ〜ずが挑戦しているというのも因果なもの。

 

破天荒なムーミン一家の行動は、一方で文明批判もふんだんに盛り込まれているね。このことすら見落としそうになるけど。

これはあまり気にされてないかもしれないけど、チャラ男との決闘シーンで、ムーミンが勝ったあと、ミイが騒ぎを聞きつけたパパに

 

「ムーミンは剣の使い方を間違えたのよ」

 

というのは興味深いね。ムーミンて、たまにこういう答えになってないような答え方をすることがある。勝ったか負けたか聞いてるのに、この答えは何なんだろうね。正攻法だけが最善の結果に導けるとは限らない、習った方法論だけに拘泥していては、自由な発想が生まれず結果も伴わない、というようなメッセージかもしれない。普通に対決すれば負けるムーミンが、剣の使い方を間違えた。だから勝った、とでも言いたげだね。

 

そして、本作はスナフキンが留守番するためほとんど出番はないんだけど、これも重要だね。スナフキンは南の海に誘われたけど行かなかった。ボヘミアンだから気乗りしなかったのか?そうではなくて、ムーミン一家が帰ってくることを分かっていたから待っていたという気がするね。スナフキンは常に彼らの先を考えているな。

 

 

仕事を辞める、と決める、またはセーブする、と決めると、いろいろいいと思うことがある。

 

ひとつ、睡眠をたくさん取れる

よく湿疹ができるので2ヶ月に1回皮膚科クリニックに行くのだが、そこでお医者さんにこう言われる。

「たくさん寝るとよろしい」

「ぼくはたくさん寝ていますよ」

「あら。どれくらい?」

「7時間です」

「それじゃ足らないわ。8時間は寝ないと」

 

日本で働いている30代の何割がその目標に達しているっつーのか。たいていの会社では休憩込みで9時間の拘束が土台としてあり、定時で上がれなければそこから1、2、3時間と足が出る。いつも12時間働き、通勤に往復2時間かかる人であれば、8時間寝るためにはあと2時間しか残されたタイムがない。当然、自分でほかほかご飯を作ろう、洗うのが面倒だけど、魚をグリルで焼きませう、ご飯もおひつに入れちゃったりして。こっちの方が美味しいのよん、なんて優雅に手間暇をかけている余裕はなく、あっという間に就寝せねばならない。そんな生活を土台現代の若者が我慢してするはずがなく、泣く泣く睡眠時間を削ってリゲイン飲んでゴーしているわけである。

じゃあ今の私はどうかというと、8時間眠るときもある。寝ようと思えば寝られるのだが、なんせ寝るのが5時とかなので、さすがに13時起きるわけにはいかぬ、ということで12時前後には起きる。寝ようと思えばたくさん眠れる環境にいられる。そのせいかわからないが、比較的肌のかゆみが治まっている。

 

 

ふたつ、仕事って異常だなと振り返られる

多くの人は我慢して仕事をしているわけだが、たまに我慢していることを忘れるときがある。いや、もしかしたら心理学でいう防衛機制が働くのかもしれないが、つまり、仕事で忙しいって立派なことじゃね、という思い込みをする。しかし、それは相対的な価値に心が曇っているだけである。葬儀や結婚式、同窓会にて、仕事や収入、住んでいるエリアなどでマウントを取ろうとする同輩がいる。私のある同窓生は、手取り15万の仕事を自嘲気味に話していたが、別の同窓生がニートであることを知るや、蔑み始めた。仕事での不満やストレスを価値の高いものへと転じ、自らより低い人物を想定することで安寧を図る、というものだ。

 

しかし、それは純粋な思いではない。もしそうであれば、ほかの人にひけらかす必要はない。別の目的があるから、他人にひけらかすのだ。そうして得られる快感というのはほんの一瞬であり、そのために一度しかない人生のうち、半分以上を我慢の時間として費やすのはどうしても納得いくものではない。そういう当たり前のことに気づく。

 

 

みっつ、無駄なものをたくさん買っていることに気づく

働くと疲れる。疲れると買い物が適当になる。アマゾンとかで、ぽちー。失敗しても、お金はあるから大丈V。とかを続けていると、あっという間に部屋は無駄なものでいっぱいになる。暇になってからそのことに気づく。だから、いまはヤフオクでちょっとずつ処分している。

仕事のストレスは消費によって発散する。これは実に奇怪な連鎖だと思っていて、人は忙しいほど消費に対して無防備になる。栗原康の本で、一般的な人である元彼女に何のために働いているのか聞くと「買い物(消費だったかも)するために働いている」と言ったそうだが、自分が働いて得た金を何に使っていたのか記録してみると「はっ、私は何をしていたのだろう」と、ゴルベーザに心を囚われたカインみたいな寝言を言うはずだ。

 

 

こうして、社員的な働き方を辞めると決まると実によき効用があるのだが、では自由闊達、天衣無縫に人生を歩めるかというとそうでもない。お金とかそういう話を置いておいても、である。つまり、いずれはお金をもう少し稼がなければいけない、年齢を考えると、とか不都合なことで気持ちが揺らぐことがあるのであり、そうすると、やりたいことというのは手をつかないものだ。もしこれが、定年退職した、あとは身の丈にあった生活をすればよろしい、となれば、例えば1年がかりで覚えられる外国語の学習、なんてのに手をつけて、その道で一端の人になってこましたろ、といった野望を燃やすこともできるのだが、明日をも知れぬ我が放浪人生、それを悔いなし、と断定することができないため、大志を抱くことができないのだ。つまり、中途半端になるっちゅーことだね。それをどうにかして実行していこう、うまく生活しながら、というのが目標なんじゃないだろうか。

JUGEMテーマ:書評

 

太宰治「斜陽」。表紙はどこへいったのか、裸の状態の文庫が本棚の奥から見つかった。おそらく、中学生のときに読んでいらいの発掘なのだけど、ちょうど持ち運べる薄い本がないかなと思っていたので、久しぶりに読んだ。

 

辺境ブログなのでネタバレするけど、没落する華麗な家族のうち、弟の清治は自殺する。遺書の内容も克明に描かれている。

 

「斜陽」は戦後の混乱期、論壇に上がる人々があらゆる社会思想をぶちまけており、そうした世情を踏まえた内容でもあるのだが、この清治の死は実に普遍的なテーマを持っていると思う。つーわけで、どんな理由で死んだか勝手に書いてみる。

 

清治は若い時分からダラダラしていた。ただダラダラしていただけではない。麻薬をやり、戦地では阿片も覚えた。帰ってからも一向に働く気配がなく(貴族は働かないものらしい)、デカダンを装う小説家の連れとして日々飲み歩き、口頭な議論をぶつ、ようなぶたないような、つまり彼は芸術や思想の世界で、家の金をただ消費し続けていた。

 

ところが、ある日彼は自殺する。クスリに溺れても、飲んでふざけても、芸術や思想の議論も、本当は楽しいと思ってしたこともなかった。むしろ、田舎出の芸術家たちが、本当に自分が作るべきものを作らず、流行に乗じた作品を描くことに軽蔑していた。

 

彼は一人の人妻を愛していたが、それは叶わぬ恋であった。主人公である姉にだけ、遺書で誰であるかを知らせている。

 

 

金にはなんとなく困っていない。将来的にはやばいかもしれないけど、いまはあるから悲観的にならない。だけれど、死にたいという意志をずっと前から抱いている。

周りが遊んでいたら、自分だけ勉強するわけにはいかない。一緒になって楽しくない遊びに興じる。これは、仲間はずれが怖いのではない。彼の無用な気遣い、性格がそうさせていると考えていいだろう。なぜなら、彼は仲間はずれが原因で死んだわけではないからだ。そして大切なのは、彼は一見退廃的な人間のようだが、デカダン連中との遊びが本望ではなかった、というところだ。

 

本作の大きなテーマとして、人間の言葉で語られる思想より、もっと偉大なのは自然な欲望である、というものがあると思うが、それは清治の死にも表れている。合従連衡の社会に辟易する彼の唯一の生きる希望は、愛する人妻だった。そこには家計も学問も介在しない。思想によって自死を選ばなかったことだけが、実は大きな救いなのだ。太宰治がもしあと10年も生きていたら、若者が政治闘争にのめり込み、「大義のために」殺人をする姿を嘲笑することだろう。

 

清治は、思想なきあとの競争社会を拒絶し、過去の財産を食いつぶす私たちの象徴だ。しかし、清治は必死にもがき、爪痕を残すように死んでいっただけでもまともに思える。規律と道徳が蔓延するいまの日本では、私たちは荒れ狂うことも引っ掻き回すこともかなわない。

 

 

JUGEMテーマ:音楽

 

 

昨日、アナキズムに関する本の感想を書いていて思い出した、というか、そういえばさあ、みたいな風に考えたことがあって、それは、ロックは反体制で、反社会的で、アナーキーである、という一般論、あるでしょ。あれについてです。

 

今年の春にエコー・アンド・ザ・バニーメン(懐かしのバンド)のボーカルが、北朝鮮のミサイルが飛んでくる国にはいけねえ、ということで来日公演をキャンセルしたことがあった。向こうからしたら、今の日本はキューバ危機みたいに映るのかもしれない。そんなわけでこの話がネットニュースにも掲載されたんだけど、それに対して

 

「全然ロックじゃねえワロタ」

「気持ちは分かるけど、無言で脱出するとはロックじゃねえな」

「ロックならせめて何かしら訴えてから帰れ」

 

というコメントが並んだ。これをどれくらい本気で書いているのかは当人次第なのでわからないけれど、それを抜きにしても、言葉の遊びとしても、ロック・ミュージシャンとは死地に飛び込み、思想をアピールするタイプの人であり、危ないからって黙って帰るのはロックじゃない、玉無しのすることである、みたいなイメージが浸透しているようだ。

 

ここら辺で言いたいことを書きますと、こうしたイメージで言われるほど、ロックは反社会的でもアナーキーでもない、ということだ。反体制くらいはあるかもしれないが、それは時の政権を打倒したいぜ、くらいの意味合いである。むしろ、ロック音楽の本場・イギリスでは愛国を平気で標榜している。

 

イギリスのロック・ミュージシャンは何人かサーの称号を手にしている。あげる、と言われて断った人がいないのだ。一人だけ、もらって数年経ってから突き返したのがいる。ジョン・レノンだ。だが、彼が勲章を返したのには理由がある。イギリスがベトナム戦争に参戦したからだ。

 

これは、ブリティッシュ・ロックの政治的アティチュードの本質を突いている。つまり、彼らはイギリス政府がアメリカの関わる戦争に同調したり、フォークランド紛争に参加したり、労働者階級を潰す政策をしたりすることには中指を突き立てる。サッチャーを豚小屋にぶち込め、くらいの勢いだ。しかし、イギリスのことは大好きだ。クイーンのライブを見ると、10万人の観衆を前に、高らかにイギリス国旗を誇示するシーンがある。国歌も流す。観客は酔いしれる。イギリスという国家の秩序を信じている。そこにきつい皮肉を込めることもある。それらは反体制かもしれないが、反社会的でもアナーキーでもない。ガチマジのサンディニスタ精神はロックと相容れないのだ。

 

それに比べると、日本のロックはまったく様相が異なる。一応、日本のロックも破壊的、というか、やんちゃな一面が強調されている。だから、日産は矢沢永吉に「やっちゃえよ」と言わせる。

ぼくはよく知らないが、最近の野外ライブとかでは、随分政治的というか、リベラルな言動みたいのと結びつけた音楽活動が見られるようなのだが、そこには日本を好きです、愛しています、みたいな言動は一切ない。どっちかとうと、ノリとしては「日本死ね」なのである。日本の中では、国と政府を切り離せない。ある意味こちらの方がはるかにアナーキーだが、その割に「選挙に行こう」ゆーてるからそうでもないのか。よくわからんが、だからそういうアティチュードをロックと言われるとピンとこないんだろうと思う。

 

 

ロックと愛国について、もうひとり紹介しなければいけない人物がいる。それは、もう、あれね。エルヴィス・プレスリー。なんだよこのファンキーな写真、ってのはあとで書くとして。

 

エルヴィス・プレスリーこそ、ロックと反骨を結びつけた第一人者である。それより前にビル・ヘイリーなんて人もいたのだが、影響力はエルヴィスの比ではない。

なんといっても、エルヴィスの腰振りながら歌う、って挙動がやばい、ということで、アメリカの伝説的なファミリー御用達高視聴率音楽番組であるエド・サリヴァン・ショーでは、腰から上しか映さなかったほどだ。それほど、彼をテレビで流したら若者がやばくなる、遊び呆けて、クスリをはじめて、怠惰になり、暴力的になる、家族の絆を大事にしなくなる、そう本気で思われていた。

 

だが、当のエルヴィスは勤勉で実直だった。人気絶頂の時期、進んで徴兵に参加した。アメリカを愛していたからだ。彼は自分の音楽ルーツでもある教会通いの体験から、神にも毎日祈った。

 

そして、極めつけがこの写真である。左はニクソン大統領。1970年の写真らしい。これは当時、表には出なかったが、2年後に新聞社がスッパ抜き、大事件と言われた。エルヴィスがニクソンの人気取りに利用された。ロック・ミュージシャンが時の政権に、しかもベトナム戦争の当事者であるニクソンに魂を売った、とまで言われ、人気が凋落しかけた。

 

しかし、エルヴィスの真意はまったく違った。これは、当時若者に蔓延していた麻薬に心を痛めていた。なぜか。それは、自分の音楽がビートルズらロック・ミュージシャンに影響を与え、ドラッグをはじめとするカウンター・カルチャーを生む引き金となったからだ。

めちゃくちゃ真面目である。プレスリーはアメリカの若者が麻薬漬けにされていくのが許せなかった。そして、その責任は自分にあると感じていた。だから、プレスリーはニクソンに自ら会いに行った。自分を麻薬取締捜査官にしてくれ、と嘆願するためだった。これが、写真が撮られた日に会談が行われた経緯である。

 

どのアティチュードが正しいのか、という話ではない。どのアティチュードのロック音楽が奥深く感じるか、ということだ。もちろん、それが絶対ではない。しかし、それは音や歌詞、バラエティに割と表れる。

 

ロックの奥深いアティチュードとは、テレビの生放送で反原発を見せつけアクシデントを起こすことでも、Twitterで数十万人のフォロワーを相手に反政府発言をぶちまけてバズることでもない。

サーの称号をもらい、イギリスという国家の期待を背負いながら、満員の東京ドームにてクライマックスのバカでかい号砲と炎が上がり観客がビビってる中、あろうことかピアノに頬杖ついてため息をつくポール・マッカートニーの余裕。やはり大物だ。

 

本当にアナーキーを標榜するなら、その土俵はロックではない。もっと地下に潜らなければならない。アウトロー。それは、ポエトリーやノイズ的な音楽として表れる。なぜなら、それは消費社会に対するアンチテーゼだからだ。ちなみに、ぼくはノイジーなレコードはあんまし持ってない。どう見てもアウトローじゃないもんな。

 

ちなみに、昨日の本の著者は、長渕剛がとても好きらしく、その趣味の悪さにビビった。

はたらかないで、たらふく食べたい。栗原康

 

結構売れてるんだね、と書評サイトでの数の多さに驚いたわけだけど、内容を簡単に言うと、資本主義、ひいては市民社会では働かない人を徹底的に批判し、扶助から排除する。消費することが美で個性であるかのように扇動する社会をたたきのめせ、ファッキン。そして好きなことを誰にも叩かれずにやっていきたい、みたいな感じ。

いまぼくはファッキンと書きましたが、本書で書かれている言葉はそれよりもはるかに激烈で、アナキズム研究者によるアナキズム実践、みたいなところですかね。実践はしとらんか。過去に研究対象とした運動家、不労の偉人などを紹介し、現代の日本とすり合わせる、というようなエッセイ。

 

日本人は秩序にもたれかかって働かずに暮らす、または非正規で働きながら暮らす、ということに対して異様なまでに厳しく諭してくる。または、憐憫でもって「変わらなきゃ」と訴える。

 

「変わらなきゃ」「やっちゃえよ」

 

その結果、心をズタズタにされ再び闇に戻っていく人がどれだけいたことか。そうしたトラウマに、善良な人々は見向きもしない。

以前出ていたサポステのポスターもこれに近い意味合いのコピーライトだったが、働かない人の心理状態を何もわかっていないことがよくわかる。

 

「仕事バカ」というと聞こえはいいが、仕事のことしか話せない本当の「バカ」がたくさんいる。彼らは、社会人になったら仕事語だけを使って人生を走り切るもんだと、本気で思っている。そして、そうした言葉に疎い人々をそしり、非難し、叱責する。だが、本当にバカなのは、仕事上でしか通じない言葉だけ使い、狭い領域でネチネチ言い続けている仕事人間の方なのは明白だ。それでも彼らが自信満々なのは、お金を稼ぐことで社会から認められているからだ。

 

その一方、稼げていないのに、上っ面は彼らのような言葉遣いをして偉ぶっている者もたくさんいる。大勢の勘違いをも生み出してしまう消費礼賛の洗脳は、実に罪なものなのだ。

 

ぼくはお金の大切さというのを感じたことがない(貧乏してないから、という経験値からではない。人間として生きていくために必要なものか、という意味である。念のため)。しかし、労働の対価としての収入にいちいち疑問を感じ、消費に対して非常に慎重でもある。もう少し踏み込んで言うと、生活のランクを上げるため、結婚をするためにお金を投資する、という感覚がよくわかっていない。肌で感じることができない。

 

だから、本書での日本社会に対する批判はぼくの経験からしても突き刺さるものがあるし、共感するところも多々ある。

 

とはいえ、中には好きなことをしたら勝手に金がついていくるという手合もいるので、一概に仕事を個性を削るものとして批判することはできないと思っているのだが(例外だとしても、それが仕事の理想形であれば現実にある程度達成されている、ということだ)。

 

 

本当は本書を手がかりにロックとアナキズムについて書きたかったのだけど、思いの外ちゃんとした本の感想になってしまったので、それはまた別途・イン。ZZZ…。

 

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