JUGEMテーマ:書評

 

 

「Songs」 小尾隆、という音楽ライターによるもので、なぜか画像いけないからテキストリンクで。

http://amzn.to/2yoLTeA

 

サブタイトルは「70年代アメリカン・ロックの風景」。ぼくはアメリカン・ロックに明るくないので、いろいろ知ろうぜ兄弟、ってことで古本屋で買ったというのが、いま手元にある経緯、理由、一身上の都合。

 

買ってから気づいたけれど、これはディスクガイドだとか、解説書といった類ではない。あとがきで「ありきたりのロック概説書でも、妙にマニアックなデータ本でもなく、自分の視点や感性に基づいた音楽の本を作りたかった」と書いているとおりで、本書はエッセイに近いものと捉えた方が適切。まあでもぼくのイメージでは、アメリカン・ロックというのはそういう「語られ方」を繰り返してきたんじゃないかという気がする。「物語」なくしては、人種的にルーツに根ざしているとされるアメリカン・ロックを語りづらいからだ。もうひとつ言うと、いわゆるスワンプとか、カントリーとか、それぞれ多数の名盤があれど、その違いを言葉にするのは非常に難しい。だから、ストーリーにすることでアルバムの説明を補完できる。

 

当然、ただ物語として簡素にヒストリーを書くだけでは、アメリカン・ロックの雰囲気、みたいなものが立ち現れることはない。ここが本書の特徴なんだけど、非常にウォーミングなんだね。ハートフルですよ。都市社会は害悪で、政治は保守的で、まったく人生は虚ろだけど、なんやかんや音楽は楽しいぜ、みたいなシンガー・ソングライターの毒気を抜いたような、そんな文章。イギリス、アメリカ、どちらのロックも「自由」との関係は深いけど、イギリスが求めるのは破天荒としての「自由」であって、アメリカは政治的な「自由」の標榜という点で違っている。だから、アメリカン・ロックを語る人たちの節々にはリベラリズムも感じる。アメリカの音楽に影響を受けた日本のミュージシャンもそんなところがある。とはいえ、本場のカントリーは保守派を体現する音楽でもあるわけで、この辺の線引きは複雑になる。

著者とも親しいぽいけど、佐野元春が帯にも推薦しているとおり、そうした界隈のムードだね。それに、サブタイトルにある「風景」なんて、イギリスのロックではほとんど使われないんじゃないかな。風景ってのは、アメリカン・ロックが語られるうえでのキーワードだね。

 

ただ、そうした語り方自体が、アメリカン・ロックの「定説」たらしめているところがぼくがなんともいえないと思うポイントで、これは日本だけでなくて、アメリカにおいてもそう書かれてきたんだね。それが最近の文化論的な研究では、実は我々がフレームとしている人種と音楽性という割り切りは、誤解されている面が多分にある、というものもあるので、やはりレコードはレコードとして、一度こうした表現とは距離を置いた方がいい。そのうえで、自分の語り口ってのがあればベストなんだろうけど、それはなくてもいいよね。パンと茶とアスピリンがあれば生きていけるし。

 

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:映画の感想

 

 

 

イレイザー・ヘッドを劇場で見るというのは、もちろんあの異様な雰囲気を存分に浴びたいというのもあるのだけど、それ以上に、イレイザー・ヘッド公開時の語り草となっている、はじめは数人しかいなかった劇場の客が、口コミで広めていって徐々に中毒者を増やしていった、という逸話を追体験したかった、というのがあるのかもしれない。作品中に流れるP.Iversの作ったIn Heavenを小さな劇場のくぐもった音で体験したら、マニアになってしまう人も多数いたでしょう、というのが容易に想像できるサイケ感。


当時、まるで金のなかったD.リンチが陰鬱ななか何年もかけて撮影したということだけれど、あんな閉所的なセットを組むというだけでぼくなら憂鬱になるし、それともリンチが陰鬱だったからその反映だったのか、それはわからないけれど、それでも妥協せず、息切れしながら駆け抜けてたどり着いたのがイマジネーションのかたまりとも言うべき唯一無比の世界観で、こんなものを作れる人がこれから出てくるのだろうか。恐らくリンチが墓場まで持っていくであろうグロテスクな赤ん坊の謎、あれが未だに解明されないというのがすごいね。3億円事件みたいなもんかな。違うか。

 

イレイザーヘッドはホラーではないけど、おそらくホラー映画を見る人にもファンが多いはず。

ホラー映画は悪夢を具現化したものがほとんどで、イレイザーヘッドも多分にそうした要素が盛り込まれているからなのかな。ただ、イレイザーヘッドで描かれる悪夢はD.リンチの頭の中に湧いたもので、悪夢そのものが現実を一線を画しているにも関わらず、本作は現実ぽい具体化をも拒んでずーっと先を映し出した、そんな見方はどうでしょう。ヘルレイザーはホラーの中でも、ややこちら寄りなのかもしれないね。


そういえば、食事シーンは悪魔のいけにえぽい、とぼくは毎度思っているんですがどうなんでしょう。

JUGEMテーマ:映画の感想

 

 

おショッピングをしていたら、ちょうどおタイムがおムービーをやるってんで、おウォーキングしておシネマに入館。新作邦画見たのなんて何年ぶりかね。結構人いるのかな、有名作のシリーズだし、と思ったら10人くらいしかいないじゃねーかバカヤロー。

 

毎回、アウトレイジに限らず北野作品は作り込むね。原田泰造ら弱キャラが突撃するような、ささやかに思われるシーンが、武率いる命知らず集団を引き立てていて、そうした細やかな配慮が随所にある。


そしてシリーズを重ねるごとに、アウトレイジというのは現実のリアリティではなく、アウトレイジという虚構のリアリティを確立していく。これが本シリーズの恐ろしさだね。

 

テーマ(古いヤクザvsイマドキのヤクザ)は仁義なき戦いと似てるところもあるとはいえ、どちらもリアリティを感じさせる、というのがヒットシリーズの凄みだね。我々には本当のヤクザ社会をいかに反映してるかなんてわからないけど、それを気にさせないパワーがある。ゴッドファーザーとか、あんなマフィアおるんか、と思うけど、あの世界観に没入した人は数多いし、それにマネしたくなるでしょ。アウトレイジも、みんながマネしたくなるようなセリフをいっぱい用意してるもんね。


そして、多くの人が半端に感じたであろう終わり方ってのは、何かを予感させるとか、そういうのとは違って、闘争が永久に終わらぬ円環にあることを示唆しているのではないかしら。そういう意味において、どこで「最終章」を切り上げてもそれは必然であったように思う。

 

 

JUGEMテーマ:映画の感想

 

 

リンチ作品をいくつか上映、ってことで新宿の角川に行ってきたんですけど、映画館で見ると、いいね。今時こんな映画見られませんよと思います。とはいえ当時は相当不評だったそうで、その理由は舞台が入り乱れる難解さにあったとも言われていますが、テレビシリーズの肝はマクラクランと地元警察との軽妙なユーモアあるやり取りにあったわけで、その期待に応えなかったのも大きかったのではないかな。暴力シーンの連続だからかなり重いもんね。


映画館で観ていたら、後ろの座席だからどんな人かわからないんだけど、多分少し変なんだろうおじさんがやたら咳してて(しかも我慢せず、思いきり吸い込んでのでかい咳)うっさいなと思っていたら、たまに声を出して笑うのね。だけど、ぼくはこっちは許容できたんです。なぜかというと、その笑いどころがいわゆる怖がらせるような場面ばかりだったためで、つまり彼が何も好きなときに笑っていたわけではないとわかったからなんです。ある意味では我々よりも自然に、この映画を楽しんでいたといえますね。


ホラーとユーモアが表裏一体であること(基本的にローラの親父が出るシーン)を90年代にこれほど醸し出せたのはリンチが世間の潮流に迎合した仕事をしないからで、だからリンチの作品には時代の臭いを感じさせないんです。個人的行為として映画を撮っていたから、常に芸術として評価されてきたのではないかな。

 

映画を家のテレビで見るのと、映画館で見るのとの違いは、見終わって外に出たときの、隔世感みたいなもの。これを映画館で見て街に戻ると、実はこの世の中、簡単におねーちゃんを捕まえられる、という妄想にとらわれてしまうね。理性の線引きってどこだったかな、とふわふわしながら地下へ潜り、新宿三丁目を去ったのでした。

 

JUGEMテーマ:書評

 

英語の勉強より、書評の方がとっかかりやすいわな。

 

騒音文化論―なぜ日本の街はこんなにうるさいのか (講談社プラスアルファ文庫)

 

哲学者・中島義道さんの著書ですね。20年くらい前ぽい。

 

<以下は本の概要>

彼は口うるさい哲学者にして、騒音についてもヒジョーに口うるさい。銀座で大音量のファッションショーを見かければ交通機関を止めて抗議し、マイクを使い大声で客に注意を呼びかける駅員がいれば、マイクを取り上げて線路に捨てる。

しかし、彼はいわゆるクレーマーとは違う人種である(この事例だけではとてもそうは見えないだろうが)。それは、彼にとって騒音が文字通り「死活問題」なのであり、なぜかというと、騒音に抗議せず黙っていると人を刺しかねないためらしい。彼はそれほど街のうるささに苛まれており、そして、それに共感しつつ自分のように何も抗議しない人間を「問題意識のレベルが違う」と切り捨てる。彼の騒音に対する態度は、倫理的な問題ではなく、実に個人的な問題として取り上げており、そして約280ページによる自分を省みた考察は、「日本人のからだ」という言葉を軸に、タイトルのとおり文化論へとたどり着く。これによると、街にあふれるアアシロ、コウシロという案内板、注意を促すスピーカー、放送、機械音は、実は大衆が望んでいるものである。だから、誰も抗議をしない。時折「昔の日本は静寂を愛していたのに、嘆かわしい」とのたまう評論家がおるが、それはまったくの間違いである、と指摘する。なぜかというと、日本は1000年も昔から人工的な景色、人工的な音が社会に巧みに溶け込んでおり、これは頑強な建物でウチとソトを分かつヨーロッパ社会とは全く異なるものだ。だから、嘆く必要は何もない。日本人はアメリカに占領されたって何も変わっていないのだから。その中で自分のようなズレた人間はマイノリティであり、多数決=公共においてそうした意見は汲みされない。だから、自分の希望とする、無駄な騒音の排除はまったく不可能なのである、としている。

−−概要ここまで−−

 

ぼくは著者ほど音に敏感なわけではない。苦手な音といえばテレビで、極力つけないようにしている。CSのニュースみたいに、アナウンサーの音声くらいしかしないものならいいんだけど、バラエティ番組のようにひな壇タレントの声と過剰な笑い声、それに畳み掛ける派手なナレーションとサウンド、てのが嫌いで、そういうのは変えちゃう。では街中ではどうかというと、どちらかというと戦わず逃げるタイプなんだね。うっさい連中がいる席に近かったら、もー出ましょ、みたいな。

 

と、音に対する考察を掘り下げたいんではなくて、今回は本書にある「日本人のからだ」との「ズレ」で少し体験したことがあるので書きたいんですね。というのも、以下は今日の話。

 

ADHD等の人が集まるというカフェでのライブイベントに参加した。ぼくはそこに来るのが初めてで、20人ほどの参加者はどれも知らない人ばかり。一人だけ、1年ほど前に別のイベントで会った女性(50代くらい?)の方は、随分元気になっていた。あのときは記憶がすぐに失われるような症状から回復したばかりで、希望を一生懸命に口にしながらも、その淀んだ目には疲労が色濃く残っていた。しかし、この日は血色がよく、自然な笑顔と元気な声でいろいろな人に声をかけていた。もともととても礼儀正しい人だったから、印象がとてもよい。「自分の居場所がたくさんあることがわかって、とても充実しています」と話してくれた。聞いているぼくもとても気持ちがよくなる。

 

別の初対面の女性は40代中盤で、とてもユニークだった。話がどんどん脱線するのだが、必ずネガティブな方向へ転がり、それが笑いに転化していく。お金に困っているため生活保護を受けているとのことだったが、ぼくはそうした人と話すのは初めてだった。とはいえ、生活保護を受けている人が一様に同じ性格なわけではない。生まれや仕事について聞いてみると、まるで西村賢太の私小説の世界のごとき人生を歩んでいるようだった。それでも、彼女は自分の生活を「ああ野麦峠」や「流し」で生きていく演歌の世界観に例え、奴隷にように生きている様を笑いに転じていた。

 

先の中島義道の本では、自身が抗議した相手が自分言葉を使えず「いやー、でも音声を必要としている人もいますし」「自分が決める立場にないんで」といった定型句しか言えない人々の言葉を「世間語」と揶揄しており、その反対に自分の意思を口にできる言葉を「個人語」と表していた。

言うなれば、彼女らの言葉に、社会で刷り込まれた「世間語」は使われていない。自分の言葉(=個人語)で語っていた。こうしたコミュニケーションは、忘れていた言葉の掘り出し方をほんの少し思い出させてくれる。働いていると、自分の思ったことを攻撃的に口にすることは慎まなければならない。やりたいことへの意識が薄れ、通帳の数字が大きくなる反面、いつの間にか季節が移り変わり、言葉も思考もフラットになった、ということには気づいていた。そして、今日はそれが確実に、頭で感じた。これは自分にとって実にはずべきことだと思っているので、なるべく仕事場に近づかないようにしたい、と改めて思った。仕事は、一見クリエイティブなものでも、個人の言語を殺す。だって、クリエイティブな仕事が増えた結果が、この騒音だらけの日本だもんね。

 

で、そのカフェを出て一人で地下鉄に乗ったんだけど、そこにいる人たちの表情というのか、態度みたいなものが、さっきカフェにいた人たちとはまったく違うんだよね。一般的な人は、電車に乗ることがなんでもない。おっさんがスマホで指スライドするだけのパズルゲームやってても恥ずかしいと思ってない。優先席にいて老人が乗ってきても、黙ってればなんとかなると思っている。おそらく、カフェにいた人たちはそうではないだろう。電車に乗るわずかな時間でも、簡単にやり過ごすことはできない。これが「日本人のからだ」とのズレなんじゃないかと、直観的に思ったことだ。

 

ちなみに、ぼくは電車も地下鉄も苦手で、いつ止まるかわからないから水と薬を必ず携帯しているんだけど、止まったときは汗だくになって深呼吸をして気持ちを落ち着かせているわけ。でも、周り見たらみんななんでもないんだよね。お前たちはこのまま1時間も2時間も立ちなっぱなしになるかもしれないのに、何平然としているんだ、と思うんだけど、それがプレッシャーになるからあまり考えないようにしている。大多数の日本人は、日々使用している電車が止まることも、これだけ多くの人が乗ることにも何も文句をつけない。東京の中でもわずかな面積の23区に、周囲から人間が集中するだけでも異常なのに、電車のラインは同方向に1本しかない。だからすぐに止まるし、いつも満員になる。それを当たり前のように受け止めている社会人は、本当にやばいと、本気で思っている。人を殺しまくっている車を許容する社会にも、そう思うね。それは、車がなければ物流が回らないし、仕事が減ったらもっと死ぬ人がいるだろ、としたり顔で言う人がいるかもわからんが、じゃあそう言うべきなんだよね。ゼリーで人が喉詰まらせて死んだときに、車の方が人を殺してるけど、輸出産業とか、雇用の面とかで必要なんでこっちは指導しません、て。

 

名優・仲代達矢は、小学生のときに終戦を経験した。そのとき、あれだけ軍国日本を賛美していた大人たちが一転、天皇を批判し、平和主義を唱え始めた。それを見た彼は、おとなを信用しなくなったという。おとなのズルさを見抜き幼少からズレていった彼が、社会の潮流を捨てて自分の信じる作品を演技する役者・俳優となったことは、結果的にではあるが因果なものだと思う。

 

タイトルに私は大衆とズレている、というような表現をしたもんで、思い上がっとる、こういうのをうぬぼれ屋というんじゃボケ、と言われかねないのだが、なんかあんまり謙虚なのも面白くないよね。夜中だし。

 

JUGEMテーマ:書評

 

忙しくて更新をサボった。サボタージュ。と、連想した言葉を書いて、ついでにサボタージュてWhat?と思い検索したら、サボるとサボタージュて同じ意味ですって。

 

サボタージュとは

労働組合の争議戦術の一つ。職場にはつくが、仕事の能率を下げて経営者に損をさせ、紛争の解決を迫る方法。怠業。サボ。

 

サボることは闘争である。

 

しかも、これ戦後から流行ったのかと思ったら、大正時代にはもう使われていたって。外国語+ら行五段活用の歴史は古いのです。

 

で、今回はまた本の感想になるんですが、というかまだ読み終わってないんですが、いまパラパラーとこんなの読んでます。

 

 

 

2005年だから、ちょっと前ですけど。著者の岩谷徹さんという人は、パックマンの生みの親ですね。

 

パックマンて、日本国内でももちろん有名ですが、我々の認識よりアメリカではとんでもない認知度を誇っているんだね。なんつっても、パックマンフィーバーてレコードが、当時ビルボードで9位までいってるんだから。インベーダーより少しあとだけど、スーパーマリオよりもはやく生まれた、超画期的なゲームだったのです。

 

これはゲーム制作の現場で働くひとたちに向けた内容だから、無関係なぼくは飛ばしながら読んでるだけなんだけど、著者とゲストが対談する章がありまして、その中のひとつがマリオの生みの親である宮本茂さんなのね。で、面白いと思った箇所があるので引用。

 

宮本:私たちの時代は、釘刺しやビー玉が遊びの原点ですが、いまのクリエイターはゲームが遊びの原点ですから、ゲームを元にゲームをつくっている感じは拭えませんね。

 

岩谷:……昔、ゲームが新鮮で珍しかったときや、ゲーム以外の遊びが共存した頃ならば、全精力をゲームへつぎ込ませるような内容でも良かったと思うのです。でもいまは、短い時間の中で自分の好きなペースで遊べるようなゲームでないと、やってもらえないし、評価されないようになっていると思います。寂しいですが、そういう時代なのですね。

 

 

宮本茂さんは、任天堂がファミコンをヒットさせる前のおもちゃ制作から名を馳せていた横井軍平さんの薫陶を受けており、テレビゲームが一部マニアが競争するための開発を続けたり、ただグラフィック性を高めるたりするだけの業界事情に苦言を呈している。このことは横井軍平さんをインタビューした名著で横井さんが熱く語っているから、気になる人はぜひ読んでほしい。

 

 

パックマン本の対談でも、横井軍平さんの本でもなんだけど、テレビゲームを作るときに、過去のテレビゲームのアイデアだけを並べたのでは面白くない、ということなんですね。日常に目を向ければ、面白くなるアイデアは転がってる野田。byニュートン

 

で、宮本さんはこの対談でもうひとつ語っていたことがある。それは「ゲームというものづくりにマーケティングは必要ない」ということ。驚くべきことに、宮本さんは本当にマーケティングをせずゲームを制作していくらしい。もちろん、営業からマーケティングの結果を提示されることはあるらしいんだけど、それを無視して実際にでき上がったものを営業に説明すると、今度は営業に「これじゃ売れない」と言われる。でも、クリエイターはそれでいい、とのことらしい。ゲームは2年後を見据えて開発するのに、マーケティングなんてあてにならないわけだね。

 

電車に乗ってると、読んでるだけで金持ちになれそうな啓発本の広告がいっぱい掲載されているよね。「仕事に生かすアイデアの出し方」とか、直球のものだと「金持ちのなり方」みたいなね。あの、あなたの思考を変えよう、みたいなのを読んで、本当に変わる人っているのかな。あれで変わる人ってのは元がすっからかんだから変わるんであって、変わらない人は目的まで思考パターンが確立されてるくらい頭がまともなんだから、別にそのままでいいと思うんだよね。

 

ちょっと寄り道したけど、このアイデアってワードは実に魅力的で、出すのは無料だし、いいのが出たら一攫千金じゃん、ってことで、どこの業界でも、どの企業の偉い人でも「うちの衆からぽんぽんアイデアが出りゃな」と思っているはず。でも、いいアイデアが出る人は会社なんている必要ないよね。発明して個人で特許取ればよろしい。

 

いまのゲームって全然わからないんだけど、対談で岩谷さんが言っている「短い時間の中で自分の好きなペースで遊べるようなゲームでないと、やってもらえない」というのは、スマホゲームがまさにそうだね。目標設定としてはゲームボーイのときと同じだし、誰でも簡単にプレーできるから、一見ゲームの原点回帰のように見えるけれど、実はまったくの逆で、そもそもお金をかければかけるほどゲームが進行する、逆に言えばお金をかけないと次へ進めないのだから、ゲーム性云々の話ではない。つまり、もはやゲームですらないと思っている。その中でゲーム会社が競争しているのは、いかに人気の声優を使い、そして性的指向の強いキャラデザにし、あとはたくさん課金させる導線を作る、という点だけ。つまり、マーケティングがものをいうようになっているんじゃないかな。

 

ゲームでしか遊んでこなかった世代がゲームをつくるようになった……これ、ほかの業界とかにもありそうだね。時代劇、映画、アニメ、テレビ番組……。これ、なんか面白くなくなったな、と思ったら、バックグラウンドにそういうカラクリがあるのかもしれない。

JUGEMテーマ:書評

英語さぼってる。また今度。きて四角。さよなら三角、さよなら、さよなら、さよなら。

 

 

 

 

なに地味な本読んどるんだ、そんなことではムーブメントの波に乗れず時代の先端に立てずTwitterアカウントも作れずダイソンの掃除機も買えず、社会、いや世界に取り残されるぞ、しゃきっとせい、と憂懼してくれる者がいるかもしれませんが、無用な心配。まだこのブログにコメントが1個もないもんね。最初から孤独なら孤独も実感できない。まあそれはあからさまに強がりなんですけど、この「徹子と淀川おじさん 人生おもしろ談義」の書評を書きます。

 

実はほかのサイトで短文の感想文を日々書いてまして、読書メーターっていったかな。255字制限に感想を書ける、アンド、ほかの人の感想も読むことができ、感動を共有できるっつーしろものです。こっちでは制限を飛び越えてもうちょいいろんな面から書くよう意識してみます。

 

はい、ではまずぼくの淀川長治との出会い。忘れました。でも、毎週日曜洋画劇場で、映画が始まる前、そして終わった後にテレビでしゃべる人です。顔も話し方もよーく知ってるけど、子どもだったからどの映画について話してたかとかは、全然覚えてません。これは書評としてひどい出だしですね。本の情報を欲しい人からしたらどうでもいいもんね。しかも面白くない、つまらない、笑えない。あのー、ぼくちゃん怒っていいかな?との読者の声が聞こえてくるようです。諸氏も気をつけたもう。

 

出遅れましたが、本の構成を。「徹子の部屋」という長寿番組があるんですが、これに淀川さんが10回以上ゲストで出演しているそうで、その様子を収録したものです。2人は親友だそうで、実に仲良さそうな感じで会話してます。会話というか、一応黒柳徹子が司会なので、淀川さんへのインタビューに近いですね。

 

本書について評しようとすると、すなわち淀川さんてこんな人みたいです、ということになるのですが、それは後回しにして、この本の特徴をひとつ。これは編者のこだわりだろうと思われるのが、文字起こしの編集です。インタビューの文字起こしは、喋った内容をそのまま起こして外に出す、ということはほとんどありません。口癖のように何度も使う「えっと」とか「そうですね」という言葉は割愛されるわけです。もっと体裁を整えようとするならば、くだけた口調を丁寧語に直したり、文章の組み換えをしたり、そこまでやるんです。でも、本書の文字起こしは、なるべく喋ったとおりに寄せる形でテキストにしているみたいです。

 

徹子:人生でご覧になった映画って、もう数え切れないんですよね。きっと。

 

淀川:よく撮りましたね、よく残りましたね、記念的ですね。

 

上記は一例ですが、徹子さんの方は、普通であれば赤字の部分を削って整えると思います。
淀川さんの方は、思い切って「よくぞ撮って残してくれました。記念になりましたね」くらいにするかと思いますが、これもそのまま残している。
もちろん意図があって、徹子さんと淀川さんは話し方が独特で、しかもそれを大勢の人がよく知ってらっしゃる。こうした場合は、読者に脳内再生を促す形で文章化した方がリアリティがあるんですね。先ほど挙げた例なんて、いかにも2人が話しそうな文章でしょ。本を読みながらにして、「徹子の部屋」を視聴しているような感覚です。
これは、ビートたけしの対談本でもよく見られる書き方ですね。話し方に特徴がある有名人は、それを匂わせるように言葉遣いを残す、といいんですね。さよなら、さよなら、さよなら。これはいくらなんでも強引。


後回しにしておりました、語っている内容は淀川さん自身の半生がほとんどで、どうも家庭にいろいろあってお母様を溺愛し、そのせいか結婚もしなかった、みたいな感じです。
映画の話もちゃんとあります。スクリーンを広く捉えて、どうしてここでヨットが映るのか、なぜ死体の手だけクローズアップなのか、みたいなところに目がいって、独自の解説をできる、そんな感じです。ちなみにこの例はアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」ね。

チャップリンの「街の灯」はぼくも見た作品ですが、これの解説もほほーとなりますね。男女の間を隔てるショーウィンドウ、そこに目をつけて、これが何かを表している、というところに気づいたわけです。やっぱりね、毎度ホラーばかり見ているとこういうところに無頓着になる。ほとんどのホラーはそういった奥行きがないからね。その点、淀川さんの目は繊細ですね。淀川さんは映画を見ることは「人間教育」なんだと捉えていたけれど、それは映画に映し出されるヒューマニズムを理解していたからだと思います。ぼくはヒューマンものの映画を見ても、いいなと思うけど理解できているとは全然思わない。自分は表面しか見られていないなーといつも実感しているんですが、目がしっかりしている人は見ていてハマる感じ、というのか、そういうのがあるんだろうなと思います。いいなー。


これで書くことは終わりなんですが、だいたい2,000字くらい。45分くらいかかりました。これは今後の参考。

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たまに英語の記事で書いているとおり、ぼくは1950年〜1990年ごろまでの洋もの音楽が好きで、いま部屋にあるレコードが1,500枚くらいあると思います。それ以外にも、これまで500枚以上は売却しています。13歳ごろから書い始めたから、平均すると年間100枚くらい買ってることになりますね。多いように見えるけど、月10枚弱と考えたらすごいペースってわけでもない。やっぱ同じ年代でも、クラブ系やDJの人はもっと買ってるでしょう。一方でぼくはレコードを聴くオンリーの目的で探しているので(サンプリングとかが念頭にない)、実は同じレコードを買うという意味では同種の人とも、まったく異なるライフを送っているんだよね、というのを大人になってから知りました。

 

で、ぼくが最近思うのは、どれだけ持っていても聴くものは必然限られてくるというもので、それはまず時間と場所の制約があって、そのために手近なところによく聴くものを置いておいて、わずかな時間でその中の1曲を聴く、みたいな生活になってるんですよね。つまり、部屋中レコードに囲まれていても、実際に使用するのはターンテーブルの横に立てかけてある30枚のみ。周りからすれば異常なのだけれど、これはレコードに限らず、本をコレクションしている人もそうだね。本コレクターは、コレクションする本を読むのは二流、本棚にしまいっぱなしにしてこそ一流、というくらいですからね。こんなことを書くと荒俣宏さんに叱られそうですが、ぼくが言ったわけじゃないしご容赦を。

 

そして、なんで1,500枚ある中から30枚を選んでおくかというと、それがほかに比べて好きだからなんですよ。今日は、そのことについて少し考えてみたいと思います。

 

ある曲を好き、というのは「いい調べだな〜」と関心することだと思うんですが、意外にも西洋にそういう関心事が広まったのって遅いんじゃないかと思います。西洋音楽といえば10世紀ごろのグレゴリオ聖歌がありますけど、そのころはあくまで教会用のサウンド装飾みたいなもんで、もちろん作曲者のクレジットもなかったそうです。一方で、孔子、つまり中国、しかも紀元前500年とかそのあたりね。孔子って人は音楽の評論では一流だったと言われていますね。しかし、西洋はルネサンスを経た後、クラシックが全盛期を迎えたこともあり、音楽を嗜むことが階級、教育、ひいては政治にまで影響を及ぼすようになるのですが、そんな感じで「音楽が好き」という趣味は社会の中で有効な趣向となってきたんですね。すげー適当ですけど。

 

そんなぼくも他の人々と同じく音楽が好きと公言しているのだけど、じゃあそれが持っているレコードの枚数に反映されているのかというと、違う。これは謙遜とかではなくて、最近そう思うんです。それは、持っている全てを聴き込んでいるわけではないからですね。1回しか聴いたことないのが半分以上なんじゃないかしら。

そうすると、じゃあお前はこの中のどれが好きなんだ、となると、実は具体名を出せるわけです。QueenとThe Kinks。もちろん、他にも好きなミュージシャンやアルバムはあって、その名前も出したいところだけど、ひとまずこの2グループに絞りましょう。

なぜこの2つのグループが好きだと思っているのか。これも最近気づいたんですが、聴いているときの自分が高揚する感じが、ほかのレコードでは味わえないほど高ぶってるんですね。それを言葉で表現するならば、この2つのグループに限って、聴いたときに「世の中のことがどうでもよくなる」って具合い、これこれ。

別に「人類よ破滅しろ」「Sekai no Owariや〜」とか言いたいわけじゃなくて、普段の我々は学校とか、家とか、恋とか、仕事とか、人間関係とか、そのあたりについて悩むのだけど、これってすべて外とのつながりによって起きることばかりでしょ。でも、この2グループのレコードをかけると、外の連中のことがどうでもよくなる。この感じって感じです。80年代のヒットソングのPVで、少年がレコードかけながらギター弾く真似してる、あの自分の世界に没頭するのに近いかもしれんね。

 

ぼくはQueenを繰り返し聴いてきたから、いまでもアルバムの並びですべての曲順を空で言えるし、The Kinksもシングルを発売順にA/B面ともに言えるはず。だから好きなのではなくて、好きで聴いてきたから覚えたんだね。当たり前のようで、おとなになったらそんな因果関係も忘れてしまうんです。仕事と同じで、実績から語るようになるからね。

 

映画も同じで、ぼくは「シャイニング」を見ていると世の中のことがどうでもよくなります。スクリーンにのめり込む体験はほかの好きな作品でもできるけど、亡霊のように自分を縛る社会という存在までスイープできるのは、実はそうそうないんです。そういうものが、音楽にしろ、映画にしろ、年間で1つでも見つかるとラッキーだな、と思うゆく年くる年なのです。(まだ8月!!)

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疑問詞と疑問文がテキスト前半部分のラスト項目なんですけど、ここから派生する小項目が非常に多い。

 

・疑問代名詞

Does Nany love Fred?/Who does Nancy love?/Who loves Fred?/What do you have in your hand?

・疑問形容詞

Which dictionary can Jim use?/What color does she like?

・疑問副詞

When did his sister cook dinner?/How much did Glenn buy the wallet?

・間接疑問文

I don't know where she plays tennis./Please tell me why you are so cute.

 

学生当時は、こういう文章の入れ替えとか出てくるとヤマカンだったね。Which dictionary can Jim use?なのか、Which dictionary Jim can use?なのかわからないみたいな。今見てもわからんもん。とはいえ、文法を意識した説明をテキストではしているので、少し真面目に読むとわかる気がする。どうやら、この疑問詞に当たる部分は、普通の文章にしたときのどれに当たるのか、ということを考えたらいいそうで、例えば、

 

Which dictionary can Jim use?

 

は、

 

Jim can use this dictionary.

 

の疑問文に相当すると考えると、this→whichになる。

それをだんだんと疑問文の形にしていけばいいらしい。

 

そういえば、あまりはっきりした疑問文のタイトルの曲名ってないね。欧米では。例えばクイーンの曲名の中で「?」で終わるものって、1曲しかないと思います。思い違いならすみません。ちなみにその曲とは

「Is this the world we created…?」

we created は the worldにかかっているので、訳としては「これが私たちが作った世界なのですか?」

このタイトルが示すところは、アフリカの飢餓に対する自分たち自身へのメッセージだね。これが出た80年代初頭よりあとだけど、ネルソン・マンデラの件も大いにフィーチャーされていたし、アフリカへ熱い視線が注がれていた時代なのです。このころはロックも巨大産業として台頭しており、お金の使い方におおらかなのでした。ちなみに、マンデラ氏についても、クイーンのメンバーであるロジャー・テイラーが支援する曲を作っています。

 

しかしこの曲名だけでは簡単すぎるので、じゃあ日本にあるんじゃないかと頑張ってひねり出したのが、レベッカの、曲名わからないけど「どこで壊れたの?オーフレンズ」てサビで歌う曲ですねん。

「どこ」って言ってるからWhereでしょ。「壊れる」はbrokenだから、

 

Where is it broken?

 

でいいんじゃね、と思ったんですが、いま気づきました。「オーフレンズ」の存在に。

これは婉曲した表現ですが、もしかしたらit は フレンズなんじゃないかと思ったんです。「オー」は、壊れた友達に対する嘆きみたいなもんですかね。

 

Where does my friends broken? oh!

 

合ってるのかよくわからん。

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「いちばんはじめの英文法」ももうすぐ半分てところまできたんですが、ここにきてテキストに対する不満があります。というのは、序盤で「いかに文型を覚えることが大切か」ということを説明していたんですが、そのときは例文が易しいから理解できました。が、英文が高度になってくると、これどういう文型なの?ってのが増えてきてるんでおます。自分の場合、どんな文でも文型で考えるクセをつけようと思っているので、先の講義でも文型の反復解説入れてほしいなーと思ってます。

 

英語がなんで苦手になったかって、例えば「助動詞」って項目があって、こういうのは大抵「()に当てはまる語を選べ」なんて出るんですけど、

 

ほかの男性と結婚しておけばよかった。

I (  ) another man.

 

みたいに。で、4択があるんだけど、ここの単元で出た例文てのは、そこの解説に当てはまるものだからわかるでしょ。でも、ほかの単元で、しかももっと長い例文の中で出てきたりするともうダメで、つまりテスト向きとしては覚えられるけど、長文の中で出ると対応できないんですね。どうにかならんのか。

 

で、この助動詞、というのがたくさんあるうえに「覚えるしかない」みたいな感じで、中学生のときはこういうのでもできたけど、今じゃ無理すね。ルールも細かいしね。

 

助動詞…文に意味を付け加える

will can may should must

↑これがいろいろ変形したりするんだけど、一番厄介なのが、この助動詞一つで2、3個くらい意味があるでしょ?

may

Vしてもよい(許可)

Vするかもしれない(推量)

 

この許可、推量、ってやつね。あと、Vすべきである、Vしなければならない、みたいのもあるんだけど、どうもこの使い分けが、英文を見たときによくわからなくなる。

 

これなんでかなあと考えてみたんですけど、自分が英文を理解しようとするときにちゃんと考えてないのもあるんですが、普段使いの日本語って、明確な意味を言葉に含ませてないからなんじゃないかと。

 

「◯◯クンは、転職すべきだ」ってはっきり言える人はそうそういなくて、そういう場面の表現は「◯◯クンは、転職した方がいいかもしれないね。まあ、選択肢の一つだよね。まあ君の自由だけどさあ、人生いろいろじゃん、俺もどうしたらいいんだろう、なあどう思うよ」という具合になるわけで、はっきり転職すべきだ、しなければならない、とは我々は言わないですよね。英語では、もしかしたら頭にmaybe付ければいいのかもしれないけど、それでは日本人の「100%自信があるわけじゃないし、それに責任を負いたくない」という含意とはどうも違う気がします。

 

こんな強い表現を使うのは、せいぜいサッカー見に来てる客が「右サイド使えよ(ボールを持っている△△選手は右サイドにパスしなければならない)」というような、責任が発生しない場面に限られているんで、どうもこの使い分けというのが感覚的にわかないんですね。

 

いや、もしかしたら英語圏だって、転職の相談されたときにmust shouldなんて使わない、という話かもしれませんが、それならばそうした強い表現を使う場面、というを先に示してくれた方がいいね。

 

そんなパワープレイで覚えなければいけない、辛い助動詞とは違い、受動態は国語的に分かりやすくていいね。主語と目的語と入れ替えるという、ライター的には基礎的な文章操作だし感覚的にいける、って感じです。しかし、実際に受動態ってどういう場面で使われるんでしょう。シンプルでわかりやすさを心掛けるべきビジネス的な場面では使われない気がしていて、普段の会話でもちょっとしたシャレを利かせた冗談とか、小説のような物語とか、香ばしい自己啓発とかしか思いつきませんが、英語では案外使うもんなのかな。どうなんでしょ。