レコード・ブームはただの流行ではない

 

最近、音楽界隈ではレコードブームだと言われているが、その傾向は数字にはっきり現れている。

 

生産実績 過去10年間 オーディオレコード アナログディスク 一般社団法人 日本レコード協会

http://www.riaj.or.jp/f/data/annual/ar_anlg.html

 

レコード売上が過去25年間で最高記録、デジタル時代に逆風ーー英国

https://zuuonline.com/archives/134942

 

日本レコード協会の記事にあるグラフを見ると、2013年から2017年にかけて売上枚数が上がり続けており、2017年は2010年のおよそ10倍、110万枚近くを売り上げている。しかも、これが日本だけの現象ではなく、音楽の本場であるアメリカやイギリス、その他の欧州などでも同時多発的に起こっている。

 

これは「ブーム」と呼ばれる一過性の現象をはるかに超えている。「日本刀が400年の時を経て、再び多くの若者に注目されています」とはわけが違う。なぜなら、レコードの音楽体験が、CDやネットワークなどのデジタル商品と「比較」した上で「実用的である」と再評価されているからだ。そうでなければ、2013年から現在に渡って、レコードの売上が伸びていくことはありえない。

また、外的な要因として、趣味の多様化によってレコードにスポットライトが当たったことも挙げられる。近年は、CDや雑誌など90年台に隆盛を誇っていたコンテンツが加速度的に凋落し、SNSやスマホゲームなど、インターネット上での手軽なコンテンツが取って代わった。

片や音楽では、CDが売れなくなったもののライヴ・イベントの観客数が増加。さらに過去の遺産と目されたレコードがこうしてリバイバルしており、他のコンテンツとはやや異なる形で変質していっている。

 

 

 

ちょびっと先輩として己を律しなければならない

 

私のように20年前からレコードを愛用し、その優位性を確信していたレコード・ファンからしたら、この現象は勝利宣言と呼ぶにふさわしいだろう。なぜならば、それまでちょっとおかしな趣味だと言われてきたレコードが、その実用性を大衆によって認められたからだ。実用性とは、ジャケットがもつ「審美性」、自らの手で再生する「儀式性」など様々なものが考えられるが、何よりも「音質」の良さを認められたことが大きいだろう。

 

しかし、そうして優位性を確信していたはずの私が、ブームの風を受けてふとレコード棚に目をやると、どうしてこれだけ集めてきたのか、というセンチメンタルな疑問が頭をもたげる。中には1度しか聴いていないものもたくさんある。タイトルもアーティスト名も、歌詞も覚えていない。なんとなく買って、なんとなく聴いて、そのまま棚にしまうレコードが増えてしまった。つまり、私はレコードに対して怠惰になった。昔は、買ったものがCDであろうがレコードであろうが、ライナーノートを読み込み、ジャケットの曲目や歌詞を見ながら何度も聴き直した。しかし、大人になると時間も心も余裕がなくなる。「心が亡くなると書いて『忙しい』」という名文句、そのままである。以前に比べて、音楽やレコードに対する知恵が目減りしてきた。愛がなければ、知識を手にしようとしない。私は再び、レコードに本気で耳を傾けないといけない。ということで、これからはレコードについて思い起こしたり、今日起こったことだったり、も書いていきます。

 

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◯フランケンシュタインとSF小説

「フランケンシュタイン」は、あの怪物の名前ではなく、それをつくった科学者の名前である。

ある程度物知りな人ならば知ってることなので20へえくらいだと思うが、小説やホラー映画に興味がない人ならば、こう勘違いしたまま年老いてゆくだろう。これはきっと、藤子・F・不二雄「怪物くん」に登場する「フランケン」が刷り込まれているためか、はたまた古典映画「フランケンシュタイン」のパッケージに、デカデカとあの怪物が採用されているせいかもしれない。

 

「フランケンシュタイン」は単にホラー小説であるだけでなく、SF小説の元祖としても有名だ。つまり、怪物が「科学」によって作り出されたところが大きなポイントなのである。

しかし、単に科「科学」が登場するだけではSF小説の傑作にはなれない。SF小説には、何らかの批評性がなくては読み手の心は踊らない。手塚治虫「鉄腕アトム」は、科学を悪用して世界を支配しようとする連中を、正義の味方であるロボット・アトムが退治していく。つまり、人間は科学を良いことに使うこともあれば、悪いことに使うこともある。核戦争の脅威によっても、我々は科学の進歩が世界を破滅させるおそれがあることを存分に知っている。SFは、こうした重いテーマを含むことによって批評性を高めてきた。

 

SF小説の古典と目される「フランケンシュタイン」はどうか。イギリスの女性作家であるメアリー・シェリーによって書かれた本作は、科学批判よりずっと根深い、道徳・倫理的な言説の「弱さ」を見事にさらけ出した、傑作である。

 

 

◯読み手は哀れなフランケンシュタインを軽蔑する

「フランケンシュタイン」は文庫で400ページ以上ある長編だ。そのため、物語の核心に重点を置いて説明する。

人間関係に恵まれ、学もあるフランケンシュタインは、伝統的な研究にそぐわない独自の科学実験により、大きく力があり知恵もある怪物を作り出してしまう。その怪物はすぐに逃げてしまい、フランケンシュタインは落ち着かない日々を過ごす。

すると、フランケンシュタインの周囲の人間が殺され、親戚が冤罪のために死刑にされる。ある日、フランケンシュタインの前に怪物が登場し、自分が殺したことを告白する。怪物は、本来優しい性格の持ち主であった。どうにかして心優しい人間の家族と仲良くなりたかったが、ある日その姿を見られ、暴行を受ける。逃げる道中でも、容姿が醜いために人間たちから暴力を受け続けた。溺れていた子供を助けたが、その子供には悲鳴を上げられ、駆けつけた大人に殴られた。

そこで怪物は、哀れな自分を生み出したフランケンシュタインへの憎悪に気づく。そして、復讐として周囲の人間を殺し続ける。

フランケンシュタインは逆に怪物への憎しみを募らせ、人々に訴えるが、気が狂ったと思われて相手にされない。ついにフランケンシュタインの婚約者が殺され、怪物を追って北極までたどり着いたが、助けられた船の中で病死してしまう。

 

小説の中では、フランケンシュタインの怪物に対する怒りと、怪物の哀れみ・そして復讐とがぶつかり合うような、切迫した描写が続く。フランケンシュタインは言う。

「人を殺して喜ぶような悪魔を地上に野放しにするなど、金輪際願い下げだ!」

しかし、本書の感想をネットで見ると、ほとんどの読者はフランケンシュタインに同意しない。つまり、人殺しの怪物に執拗に嫌がらせをされているフランケンシュタインは、同情に値しないということだ。

 

怪物は、フランケンシュタインにこう言い放つ。

「フランケンシュタイン、おれの話を聞け。おまえはおれを人殺しと非難するが、それでいて自分がつくったものを破壊しようとし、良心の呵責を感じない。まったく人間の永遠の正義とは、大したものだ」

 

親戚や婚約者を殺されたフランケンシュタインからすれば、その犯人である怪物を誹り、そして闇に葬ろうとするのは当たり前のことであり、正義にかなっているように見える。だが、怪物がなぜ凶暴になったのかをたどれば、フランケンシュタインによる、正規ではない実験に原因がある。つまり、身勝手なのは怪物なのではなく、フランケンシュタインであり、怪物はむしろ救済されるべき存在である、ということだ。ここは本作の批評性を考えるうえで、非常に大事なポイントである。なぜならば、ここで倫理・道徳の論理的な弱さがさらけ出されているからだ。

 

◯「人を殺してはいけない」という道徳が通用しない?

「人を殺してはいけない」というテーゼは、基本的には倫理的・道徳的な観点によって結論付けられる。「自分がされて嫌なことはしない」「人を殺すとその家族が悲しむ」などがそれだ。本作品においては、親戚や婚約者を殺されたフランケンシュタインが怪物を憎み、その犯人である怪物を消し去ろうとするのは当然の思いのように思われる。しかし、読者はそう捉えない。すべての根源であるフランケンシュタインが怪物を憎み、悪魔だとか人殺しだとか罵るのはお門違いでり、因果応報だ、と。つまり、フランケンシュタインによる「怪物であろうと人を殺してはいけない」という正論が、まったく効力を持たないのだ。そして、その思いは、力で歴然の差がある怪物によって蹴散らされ、人間と人間、一対一の対決を余儀なくされることになる。

 

これは、現代の処罰感情にも言えることだ。重大犯罪を巡り、被害者家族だけでなく世間が死刑を声高に叫ぶことがある。我々は死刑をめぐり「人を殺してはいけない」という絶対的だと思われた道徳を、全く守っていない。このフランケンシュタインと同じように「犯人は殺されてもやむを得ない」と考えることがある。道徳や倫理は、絶対的なものではないのである。

 

私はどれだけ人を殺した犯人も、重大殺人を犯しながら反省しない犯人も、死刑にすべきではない、と言っているわけではない。たしかに死刑そのものには疑問があるが、被害者家族の処罰感情は十分に考慮されるべきだし、そうした犯罪を減らすための刑罰を考えるべきだと思う。だが、世の中の人々が安易に口にする「死刑にしたらいい」という言葉の裏には、倫理や道徳を超えて、自分自身を洞察し続けなければいけないテーマが存在する。それが「フランケンシュタイン」で描かれているテーマだと言えるだろう。

 

また、本書の中には、冤罪にかけられた親戚が「私が殺しました」と自白してしまうシーンがある。結果的にこれが証拠となって死刑が執行されるが、冤罪を課せられた人の心理として「自白してしまう」というのは、1820年頃のイギリスにおいても社会問題となっていたことが伺える。

 

人を死刑にすべきか否か。その情報を持ち合わせながら、我々はいまだに正しい判断を下せずにいる。

 

 

最近のこと。

 

モスバーガーで男性1人、女性2人の高校生がワイワイご飯を食べていた。

 

あまり頭のよさそうな喋りではなく、スマホをいじるなどしながら同級生の噂話で盛り上がっていた。

 

数十分してから男の子が「あ、もう時間じゃん。あー、行かないといけねーのかー」と嘆息しながら立ち上がった。

 

すると、同調して立ち上がった女の子が中森明菜のようなボソっとした声で

 

「時間が私を呼んでいるんだね」

 

と残しつつ店を出ていった。

相撲部屋の朝稽古を見学しよう、ということになった。

その頃、稀勢の里や遠藤といった力士が大変な人気で、場所が始めれば全日満員、チケットは入手困難となるほど相撲界全体に活気があった。

当然、朝稽古の見学者も増えたため、それまでは自由に入退室できた朝稽古も、ほとんどの部屋が見学を取りやめていた。

その中、小岩にある田子ノ浦部屋は朝稽古の見学が自由、とFacebookに記載があった。

 

さっそく、同僚の先輩と早朝小岩に向かい、コカ・コーラの2Lペットボトルを3本手土産に、住宅街を練り歩いた。

ところが、その区域は古い下町で、予期せぬ方向に道が分岐しており、グーグルマップを頼りにしてもなかなかたどり着かない。

 

この辺じゃないかな、というあたりを覗いていると、立ち話をしていたおばさんが話しかけてきた。

 

「タゴ?タゴ?」

 

サムズアップした手をクイクイさせる。その先には、たしかに大きな門がある。あそこが田子ノ浦部屋らしい。

 

「今日、朝稽古の見学に来たんですけど」

 

そう言うと、おばさんは、はは、そんなことか、とでもいう風に

 

「勝手に入って大丈夫よ」

 

と話した。そうか。近所の人はみんなこの部屋のことをよく知っていて、朝稽古も出入りしているのだなあ。地域密着相撲部屋万歳。ところが。

 

「私も昨日初めて行ったけど、勝手に入って大丈夫だったから」

 

初心者であった。

 

部屋にお邪魔すると、すでに10名ほどが狭いフローリングスペースで見学していた。私たちはコカ・コーラをお弟子さんに渡し、あぐらをかいて稽古を見学した。このとき大関の稀勢の里、それに関脇になっていた高安と、錚々たる力士が汗をかいている。

 

その中、痩せっぽちで明らかに動きの悪い力士がいる。親方からは「関塚」と呼ばれ、ずいぶんしかられている。まあ、こんな力士もいるだろうと思っていたら、親方が

 

「おい、関塚。土俵が土で汚れたから掃け」

 

と命じた。関塚という力士は竹箒を持ち、レレレのおじさんのようにちょこまか動きながら箒を掃いた。しかし、きれいになるどころか、土俵の上に土がならされて黒くなるばかりであった。

 

「バカヤロウ!前より汚くなってるじゃねーか!」

 

どこの世界にも不器用な人はいるのだな、と、帰りに両国でちゃんこ鍋ランチを食べながら思いを馳せた。

小さいときの話。

 

家族に褒められるもんで、懸命に配膳の手伝いをしていた。ところが。

 

味噌汁の入った大鍋を食卓に運ぶ際に転び、あっつい味噌汁が背中へ投下。やけど騒ぎになった。

 

それから約15年。大学のサークルにてなにか作詞作曲してみよう、と相成ったとき、自然に浮かんできた歌詞が下記のようなものだった。

 

「あったかい味噌汁が 俺の頭に降ってくる 熱い 熱い(痛い 痛い) 熱い 熱い(痛い 痛い)」

 

潜在する記憶は、クリエイティブな産物へと昇華する。ほんとの話。

 

 

こんなタイトルをつけてみたけど、実は覚えてないんだよね。

 

小さいときから実家の近所にあるラーメン屋は3つ。「ラーメンレストランハオ」「くるまやラーメン」「ラーメン栄興」。私が初めて行った店はこの中のいずれか。唯一行った記憶があるのが「ラーメン栄興」なので、多分これだろう。栄興ってことにして話を進める。

 

「ラーメン栄興」は元ダイエーの1階にあるフードコートのいち店舗である。この20年、フードコートの店が次々と入れ替わり、外食産業の弱肉強食、栄枯盛衰を体現している中「ラーメン栄興」だけが潰れない。ちなみに、先に挙げたほかの2店舗も健在だ。うまかろうがまずかろうが常連が離れないのが、地元ラーメン店の強みなのである。

 

で、「ラーメン栄興」はどうかというと、いわゆる中華料理を提供する店であり、ラーメン、ライスに回鍋肉などのおかずがつくといった3点セットなどが700円を切るなど、非常にリーズナブルでボリュームもあるということで、高校生や働く男性に人気があるようだ。ところが。

 

あれは私が中学生のときだったか。フードコートの前を通ると、男性の大きな怒声が響き渡った。

「こるあ、なんじゃこりゃあ」

と、松田優作のセリフのようなことをまくしたてたのでよく聞いてみると、ラーメンにゴキブリが入っていたらしい。

 

普通、こういったケースでお店側が反論することはない。事の真偽より先に、まずは謝罪してお客をなだめつつ、善後策を考える。

だが、「ラーメン栄興」の親父は違った。

「ウチは20年(当時)店やってっけど、そんなこと言われたこたあないぞ」

みたいなことを回答しており、つまり、お前自作自演なんじゃねーのか、というニュアンスを含んでいた。

 

当然客はブチギレるので問答が続いていたのだが、それから先のことは知らない。私はマックのポテトを単品で買いにきただけだった。

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デヴィッド・リンチ アートライフ

 

以前出たインタビュー本でもイレイザー・ヘッド以前のことを多く語っていたが、本作ほど父親との関係については取りざたしていなかったような気がする。家を離れて自由に創作して、それが楽しいとなると、常識を忘れてしまうんだな。喜々として虫の死体やら見せちゃいかんでしょ。そこで自分の行く末について確信したんじゃないかな、とこれは妄想ですが。

 

遅咲きにもいろいろなタイプがいて、リンチは割と長い間芸術家として大成するための努力をした末のデビュー。中には、フツーにサラリーマンやっていた人が突然「俺/私はほかにやりたいことがあったはずじゃん」と覚醒し外道へ踏み外す、というものもありますが、どちらにしろこうして大人になってもインスピレーションを肯定し、その感性を維持し続けることは誰にでもできることじゃないなと思いますね。働いて、他人と円滑な関係を築こうとすると、いつの間にか忘れちゃうんだな。

勉強を教えている小学校4年生の姪が、算数のテストで一度は100点を取ったものの、その後は勉強内容が芳しくないらしい。

 

特に気にしているのは、日々の計算ドリルである。計算自体は理解しているのだが、よく間違える。10問解けば、2、3問はミスをしている。教え始めた頃からその萌芽があったので、×と+の100マス計算で授業を締めている。時間を測るのが楽しいのか本人はやる気なのだが、込み入った計算になるとその成果がでない。

 

計算の様子を観察していると、次のようなことがわかった。

 

・いい加減に書くので「0」と「6」どちらかわからない

・割り算であまりを出すとき、小数点の位置を間違える。これは、筆算がだんだん斜めになるために起きている

・上に関連して、一枚の紙になんとか計算を収めようとするので、どの式が正しいものなのかわからなくなる

 

考え方が間違っているわけではない。計算するための環境がよくないのだとわかった。

 

そこで、まずは計算のスペースを確保することにした。一枚の紙の真ん中に線を引いてもらい、上はちゃんとした式と答えを書くスペース、下は自由に計算するスペースにする。それぞれのスペースを認識することで、狭くなった分逆説的ではあるが、下のスペースを目一杯使う。そのため、字も大きくなるので「0」と「6」が分かりづらくなったり、筆算が斜めになったりすることを防げる。また、文章題でも正しい答えを真っ白なスペースで丁寧に書くことができる。

 

もちろん、割り算のあとにはたしかめ算(逆算)をするように指示。問題の中には「商を1/100まで出してあまりを出す」「四捨五入して1の概数まで求める」といった細かいものがあるので、全ての問題を解いたら問題の指示を見直して答えと見比べる、ということをドリルに書かせ、次の日に忘れないようにする。

 

そのおかげか、ドリルでの正答率が90〜95%くらいまでアップした。

 

文章題の過去問(1、2ヵ月前に解いたもの)は一発で解けなかったものの、ちょっとしたヒントですぐに解けたのは大きな収穫。2周めではすぐに式が出た。割り算をどういうときに使うのか分かっていないようなので、5年生になってから理解できるようにしたい。

近所に海へと流れる川があり、たまに鉄橋からクラゲを拝める。

 

橋を渡るときにいつも川を見下ろしてはボラやクラゲを見て小娘のごとく嬌声を上げていたのだが、ある日も覗き込むと、水面下でひし形の生き物が泳いでいる。エイ。しかも隣に小さいのがいる、子連れエイ。ちゃーん。2匹は海方面へとさすらっていった。帰って速攻ネットで質問したが、別に珍しくないですよ、よくあることです、と親切なヘヴィ・ヤフー知恵バーが教えてくれた。

 

エイとはもうひとつ縁がある。なぜそんな行動に出たのか今でも不思議なのだが、ある日の早朝7時に葛西臨海公園の砂浜へ行こうと思い立った。まだ観光客が一人もいない時間だ。

 

すると、砂浜に打ち上げられている大量のエイの死体。テトラポットに登って一望すると、その一帯に数えきれないほど仏さんが。皆、顔じゃない方の顔(スクリームのかぶりものみたいなヤツ)をこちら側に向けて、ひっくり返っていた。

 

このことは、昼のテレビで、ニュースになっていた。

見したときは、もしかしたらこれが葛西の日常なんか、と思い込んでいた。イレギュラーな現象に突如出くわすと、判断力が機能しなくなる、ということを実感した。合掌。

幼稚園生のころ、祖父が使っていたという顕微鏡で遊んでいた。はじめは絨毯のホコリを見ていたが、生物を見てみたくなり、海水を調べた。プランクトンが見られるんじゃないかと期待したが、何も現れなかった。

 

道を歩きながら、どうすれば微生物な感じの生き物を見られるのか。傘を差しながら雨の中歩いていると、柔らかい土草の空き地に大きな水たまりがある。そこには、ぴょいぴょいと動く赤い点がたくさんあった。瓶に入れて持ち帰り、顕微鏡で見た。ミジンコである。

 

次の日、これはすげーと思い、近所に住んでいた女の子の友達を誘って水たまりにいった。まだミジンコはたくさんおり、飽きるまで二人で眺めてすごいねーと言っていた。

 

この行動は周囲からするとおかしかったらしく、次の日に幼稚園で随分バカにされた。

 

しかし、雨によってできた水たまりにミジンコが発生するなんてあるんだろうか。あれ以来、そんな現象に出くわしたことは一度もない。