仕事を辞める、と決める、またはセーブする、と決めると、いろいろいいと思うことがある。

 

ひとつ、睡眠をたくさん取れる

よく湿疹ができるので2ヶ月に1回皮膚科クリニックに行くのだが、そこでお医者さんにこう言われる。

「たくさん寝るとよろしい」

「ぼくはたくさん寝ていますよ」

「あら。どれくらい?」

「7時間です」

「それじゃ足らないわ。8時間は寝ないと」

 

日本で働いている30代の何割がその目標に達しているっつーのか。たいていの会社では休憩込みで9時間の拘束が土台としてあり、定時で上がれなければそこから1、2、3時間と足が出る。いつも12時間働き、通勤に往復2時間かかる人であれば、8時間寝るためにはあと2時間しか残されたタイムがない。当然、自分でほかほかご飯を作ろう、洗うのが面倒だけど、魚をグリルで焼きませう、ご飯もおひつに入れちゃったりして。こっちの方が美味しいのよん、なんて優雅に手間暇をかけている余裕はなく、あっという間に就寝せねばならない。そんな生活を土台現代の若者が我慢してするはずがなく、泣く泣く睡眠時間を削ってリゲイン飲んでゴーしているわけである。

じゃあ今の私はどうかというと、8時間眠るときもある。寝ようと思えば寝られるのだが、なんせ寝るのが5時とかなので、さすがに13時起きるわけにはいかぬ、ということで12時前後には起きる。寝ようと思えばたくさん眠れる環境にいられる。そのせいかわからないが、比較的肌のかゆみが治まっている。

 

 

ふたつ、仕事って異常だなと振り返られる

多くの人は我慢して仕事をしているわけだが、たまに我慢していることを忘れるときがある。いや、もしかしたら心理学でいう防衛機制が働くのかもしれないが、つまり、仕事で忙しいって立派なことじゃね、という思い込みをする。しかし、それは相対的な価値に心が曇っているだけである。葬儀や結婚式、同窓会にて、仕事や収入、住んでいるエリアなどでマウントを取ろうとする同輩がいる。私のある同窓生は、手取り15万の仕事を自嘲気味に話していたが、別の同窓生がニートであることを知るや、蔑み始めた。仕事での不満やストレスを価値の高いものへと転じ、自らより低い人物を想定することで安寧を図る、というものだ。

 

しかし、それは純粋な思いではない。もしそうであれば、ほかの人にひけらかす必要はない。別の目的があるから、他人にひけらかすのだ。そうして得られる快感というのはほんの一瞬であり、そのために一度しかない人生のうち、半分以上を我慢の時間として費やすのはどうしても納得いくものではない。そういう当たり前のことに気づく。

 

 

みっつ、無駄なものをたくさん買っていることに気づく

働くと疲れる。疲れると買い物が適当になる。アマゾンとかで、ぽちー。失敗しても、お金はあるから大丈V。とかを続けていると、あっという間に部屋は無駄なものでいっぱいになる。暇になってからそのことに気づく。だから、いまはヤフオクでちょっとずつ処分している。

仕事のストレスは消費によって発散する。これは実に奇怪な連鎖だと思っていて、人は忙しいほど消費に対して無防備になる。栗原康の本で、一般的な人である元彼女に何のために働いているのか聞くと「買い物(消費だったかも)するために働いている」と言ったそうだが、自分が働いて得た金を何に使っていたのか記録してみると「はっ、私は何をしていたのだろう」と、ゴルベーザに心を囚われたカインみたいな寝言を言うはずだ。

 

 

こうして、社員的な働き方を辞めると決まると実によき効用があるのだが、では自由闊達、天衣無縫に人生を歩めるかというとそうでもない。お金とかそういう話を置いておいても、である。つまり、いずれはお金をもう少し稼がなければいけない、年齢を考えると、とか不都合なことで気持ちが揺らぐことがあるのであり、そうすると、やりたいことというのは手をつかないものだ。もしこれが、定年退職した、あとは身の丈にあった生活をすればよろしい、となれば、例えば1年がかりで覚えられる外国語の学習、なんてのに手をつけて、その道で一端の人になってこましたろ、といった野望を燃やすこともできるのだが、明日をも知れぬ我が放浪人生、それを悔いなし、と断定することができないため、大志を抱くことができないのだ。つまり、中途半端になるっちゅーことだね。それをどうにかして実行していこう、うまく生活しながら、というのが目標なんじゃないだろうか。

JUGEMテーマ:書評

 

太宰治「斜陽」。表紙はどこへいったのか、裸の状態の文庫が本棚の奥から見つかった。おそらく、中学生のときに読んでいらいの発掘なのだけど、ちょうど持ち運べる薄い本がないかなと思っていたので、久しぶりに読んだ。

 

辺境ブログなのでネタバレするけど、没落する華麗な家族のうち、弟の清治は自殺する。遺書の内容も克明に描かれている。

 

「斜陽」は戦後の混乱期、論壇に上がる人々があらゆる社会思想をぶちまけており、そうした世情を踏まえた内容でもあるのだが、この清治の死は実に普遍的なテーマを持っていると思う。つーわけで、どんな理由で死んだか勝手に書いてみる。

 

清治は若い時分からダラダラしていた。ただダラダラしていただけではない。麻薬をやり、戦地では阿片も覚えた。帰ってからも一向に働く気配がなく(貴族は働かないものらしい)、デカダンを装う小説家の連れとして日々飲み歩き、口頭な議論をぶつ、ようなぶたないような、つまり彼は芸術や思想の世界で、家の金をただ消費し続けていた。

 

ところが、ある日彼は自殺する。クスリに溺れても、飲んでふざけても、芸術や思想の議論も、本当は楽しいと思ってしたこともなかった。むしろ、田舎出の芸術家たちが、本当に自分が作るべきものを作らず、流行に乗じた作品を描くことに軽蔑していた。

 

彼は一人の人妻を愛していたが、それは叶わぬ恋であった。主人公である姉にだけ、遺書で誰であるかを知らせている。

 

 

金にはなんとなく困っていない。将来的にはやばいかもしれないけど、いまはあるから悲観的にならない。だけれど、死にたいという意志をずっと前から抱いている。

周りが遊んでいたら、自分だけ勉強するわけにはいかない。一緒になって楽しくない遊びに興じる。これは、仲間はずれが怖いのではない。彼の無用な気遣い、性格がそうさせていると考えていいだろう。なぜなら、彼は仲間はずれが原因で死んだわけではないからだ。そして大切なのは、彼は一見退廃的な人間のようだが、デカダン連中との遊びが本望ではなかった、というところだ。

 

本作の大きなテーマとして、人間の言葉で語られる思想より、もっと偉大なのは自然な欲望である、というものがあると思うが、それは清治の死にも表れている。合従連衡の社会に辟易する彼の唯一の生きる希望は、愛する人妻だった。そこには家計も学問も介在しない。思想によって自死を選ばなかったことだけが、実は大きな救いなのだ。太宰治がもしあと10年も生きていたら、若者が政治闘争にのめり込み、「大義のために」殺人をする姿を嘲笑することだろう。

 

清治は、思想なきあとの競争社会を拒絶し、過去の財産を食いつぶす私たちの象徴だ。しかし、清治は必死にもがき、爪痕を残すように死んでいっただけでもまともに思える。規律と道徳が蔓延するいまの日本では、私たちは荒れ狂うことも引っ掻き回すこともかなわない。

 

 

JUGEMテーマ:音楽

 

 

昨日、アナキズムに関する本の感想を書いていて思い出した、というか、そういえばさあ、みたいな風に考えたことがあって、それは、ロックは反体制で、反社会的で、アナーキーである、という一般論、あるでしょ。あれについてです。

 

今年の春にエコー・アンド・ザ・バニーメン(懐かしのバンド)のボーカルが、北朝鮮のミサイルが飛んでくる国にはいけねえ、ということで来日公演をキャンセルしたことがあった。向こうからしたら、今の日本はキューバ危機みたいに映るのかもしれない。そんなわけでこの話がネットニュースにも掲載されたんだけど、それに対して

 

「全然ロックじゃねえワロタ」

「気持ちは分かるけど、無言で脱出するとはロックじゃねえな」

「ロックならせめて何かしら訴えてから帰れ」

 

というコメントが並んだ。これをどれくらい本気で書いているのかは当人次第なのでわからないけれど、それを抜きにしても、言葉の遊びとしても、ロック・ミュージシャンとは死地に飛び込み、思想をアピールするタイプの人であり、危ないからって黙って帰るのはロックじゃない、玉無しのすることである、みたいなイメージが浸透しているようだ。

 

ここら辺で言いたいことを書きますと、こうしたイメージで言われるほど、ロックは反社会的でもアナーキーでもない、ということだ。反体制くらいはあるかもしれないが、それは時の政権を打倒したいぜ、くらいの意味合いである。むしろ、ロック音楽の本場・イギリスでは愛国を平気で標榜している。

 

イギリスのロック・ミュージシャンは何人かサーの称号を手にしている。あげる、と言われて断った人がいないのだ。一人だけ、もらって数年経ってから突き返したのがいる。ジョン・レノンだ。だが、彼が勲章を返したのには理由がある。イギリスがベトナム戦争に参戦したからだ。

 

これは、ブリティッシュ・ロックの政治的アティチュードの本質を突いている。つまり、彼らはイギリス政府がアメリカの関わる戦争に同調したり、フォークランド紛争に参加したり、労働者階級を潰す政策をしたりすることには中指を突き立てる。サッチャーを豚小屋にぶち込め、くらいの勢いだ。しかし、イギリスのことは大好きだ。クイーンのライブを見ると、10万人の観衆を前に、高らかにイギリス国旗を誇示するシーンがある。国歌も流す。観客は酔いしれる。イギリスという国家の秩序を信じている。そこにきつい皮肉を込めることもある。それらは反体制かもしれないが、反社会的でもアナーキーでもない。ガチマジのサンディニスタ精神はロックと相容れないのだ。

 

それに比べると、日本のロックはまったく様相が異なる。一応、日本のロックも破壊的、というか、やんちゃな一面が強調されている。だから、日産は矢沢永吉に「やっちゃえよ」と言わせる。

ぼくはよく知らないが、最近の野外ライブとかでは、随分政治的というか、リベラルな言動みたいのと結びつけた音楽活動が見られるようなのだが、そこには日本を好きです、愛しています、みたいな言動は一切ない。どっちかとうと、ノリとしては「日本死ね」なのである。日本の中では、国と政府を切り離せない。ある意味こちらの方がはるかにアナーキーだが、その割に「選挙に行こう」ゆーてるからそうでもないのか。よくわからんが、だからそういうアティチュードをロックと言われるとピンとこないんだろうと思う。

 

 

ロックと愛国について、もうひとり紹介しなければいけない人物がいる。それは、もう、あれね。エルヴィス・プレスリー。なんだよこのファンキーな写真、ってのはあとで書くとして。

 

エルヴィス・プレスリーこそ、ロックと反骨を結びつけた第一人者である。それより前にビル・ヘイリーなんて人もいたのだが、影響力はエルヴィスの比ではない。

なんといっても、エルヴィスの腰振りながら歌う、って挙動がやばい、ということで、アメリカの伝説的なファミリー御用達高視聴率音楽番組であるエド・サリヴァン・ショーでは、腰から上しか映さなかったほどだ。それほど、彼をテレビで流したら若者がやばくなる、遊び呆けて、クスリをはじめて、怠惰になり、暴力的になる、家族の絆を大事にしなくなる、そう本気で思われていた。

 

だが、当のエルヴィスは勤勉で実直だった。人気絶頂の時期、進んで徴兵に参加した。アメリカを愛していたからだ。彼は自分の音楽ルーツでもある教会通いの体験から、神にも毎日祈った。

 

そして、極めつけがこの写真である。左はニクソン大統領。1970年の写真らしい。これは当時、表には出なかったが、2年後に新聞社がスッパ抜き、大事件と言われた。エルヴィスがニクソンの人気取りに利用された。ロック・ミュージシャンが時の政権に、しかもベトナム戦争の当事者であるニクソンに魂を売った、とまで言われ、人気が凋落しかけた。

 

しかし、エルヴィスの真意はまったく違った。これは、当時若者に蔓延していた麻薬に心を痛めていた。なぜか。それは、自分の音楽がビートルズらロック・ミュージシャンに影響を与え、ドラッグをはじめとするカウンター・カルチャーを生む引き金となったからだ。

めちゃくちゃ真面目である。プレスリーはアメリカの若者が麻薬漬けにされていくのが許せなかった。そして、その責任は自分にあると感じていた。だから、プレスリーはニクソンに自ら会いに行った。自分を麻薬取締捜査官にしてくれ、と嘆願するためだった。これが、写真が撮られた日に会談が行われた経緯である。

 

どのアティチュードが正しいのか、という話ではない。どのアティチュードのロック音楽が奥深く感じるか、ということだ。もちろん、それが絶対ではない。しかし、それは音や歌詞、バラエティに割と表れる。

 

ロックの奥深いアティチュードとは、テレビの生放送で反原発を見せつけアクシデントを起こすことでも、Twitterで数十万人のフォロワーを相手に反政府発言をぶちまけてバズることでもない。

サーの称号をもらい、イギリスという国家の期待を背負いながら、満員の東京ドームにてクライマックスのバカでかい号砲と炎が上がり観客がビビってる中、あろうことかピアノに頬杖ついてため息をつくポール・マッカートニーの余裕。やはり大物だ。

 

本当にアナーキーを標榜するなら、その土俵はロックではない。もっと地下に潜らなければならない。アウトロー。それは、ポエトリーやノイズ的な音楽として表れる。なぜなら、それは消費社会に対するアンチテーゼだからだ。ちなみに、ぼくはノイジーなレコードはあんまし持ってない。どう見てもアウトローじゃないもんな。

 

ちなみに、昨日の本の著者は、長渕剛がとても好きらしく、その趣味の悪さにビビった。

はたらかないで、たらふく食べたい。栗原康

 

結構売れてるんだね、と書評サイトでの数の多さに驚いたわけだけど、内容を簡単に言うと、資本主義、ひいては市民社会では働かない人を徹底的に批判し、扶助から排除する。消費することが美で個性であるかのように扇動する社会をたたきのめせ、ファッキン。そして好きなことを誰にも叩かれずにやっていきたい、みたいな感じ。

いまぼくはファッキンと書きましたが、本書で書かれている言葉はそれよりもはるかに激烈で、アナキズム研究者によるアナキズム実践、みたいなところですかね。実践はしとらんか。過去に研究対象とした運動家、不労の偉人などを紹介し、現代の日本とすり合わせる、というようなエッセイ。

 

日本人は秩序にもたれかかって働かずに暮らす、または非正規で働きながら暮らす、ということに対して異様なまでに厳しく諭してくる。または、憐憫でもって「変わらなきゃ」と訴える。

 

「変わらなきゃ」「やっちゃえよ」

 

その結果、心をズタズタにされ再び闇に戻っていく人がどれだけいたことか。そうしたトラウマに、善良な人々は見向きもしない。

以前出ていたサポステのポスターもこれに近い意味合いのコピーライトだったが、働かない人の心理状態を何もわかっていないことがよくわかる。

 

「仕事バカ」というと聞こえはいいが、仕事のことしか話せない本当の「バカ」がたくさんいる。彼らは、社会人になったら仕事語だけを使って人生を走り切るもんだと、本気で思っている。そして、そうした言葉に疎い人々をそしり、非難し、叱責する。だが、本当にバカなのは、仕事上でしか通じない言葉だけ使い、狭い領域でネチネチ言い続けている仕事人間の方なのは明白だ。それでも彼らが自信満々なのは、お金を稼ぐことで社会から認められているからだ。

 

その一方、稼げていないのに、上っ面は彼らのような言葉遣いをして偉ぶっている者もたくさんいる。大勢の勘違いをも生み出してしまう消費礼賛の洗脳は、実に罪なものなのだ。

 

ぼくはお金の大切さというのを感じたことがない(貧乏してないから、という経験値からではない。人間として生きていくために必要なものか、という意味である。念のため)。しかし、労働の対価としての収入にいちいち疑問を感じ、消費に対して非常に慎重でもある。もう少し踏み込んで言うと、生活のランクを上げるため、結婚をするためにお金を投資する、という感覚がよくわかっていない。肌で感じることができない。

 

だから、本書での日本社会に対する批判はぼくの経験からしても突き刺さるものがあるし、共感するところも多々ある。

 

とはいえ、中には好きなことをしたら勝手に金がついていくるという手合もいるので、一概に仕事を個性を削るものとして批判することはできないと思っているのだが(例外だとしても、それが仕事の理想形であれば現実にある程度達成されている、ということだ)。

 

 

本当は本書を手がかりにロックとアナキズムについて書きたかったのだけど、思いの外ちゃんとした本の感想になってしまったので、それはまた別途・イン。ZZZ…。

 

JUGEMテーマ:書評

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「Songs」 小尾隆、という音楽ライターによるもので、なぜか画像いけないからテキストリンクで。

http://amzn.to/2yoLTeA

 

サブタイトルは「70年代アメリカン・ロックの風景」。ぼくはアメリカン・ロックに明るくないので、いろいろ知ろうぜ兄弟、ってことで古本屋で買ったというのが、いま手元にある経緯、理由、一身上の都合。

 

買ってから気づいたけれど、これはディスクガイドだとか、解説書といった類ではない。あとがきで「ありきたりのロック概説書でも、妙にマニアックなデータ本でもなく、自分の視点や感性に基づいた音楽の本を作りたかった」と書いているとおりで、本書はエッセイに近いものと捉えた方が適切。まあでもぼくのイメージでは、アメリカン・ロックというのはそういう「語られ方」を繰り返してきたんじゃないかという気がする。「物語」なくしては、人種的にルーツに根ざしているとされるアメリカン・ロックを語りづらいからだ。もうひとつ言うと、いわゆるスワンプとか、カントリーとか、それぞれ多数の名盤があれど、その違いを言葉にするのは非常に難しい。だから、ストーリーにすることでアルバムの説明を補完できる。

 

当然、ただ物語として簡素にヒストリーを書くだけでは、アメリカン・ロックの雰囲気、みたいなものが立ち現れることはない。ここが本書の特徴なんだけど、非常にウォーミングなんだね。ハートフルですよ。都市社会は害悪で、政治は保守的で、まったく人生は虚ろだけど、なんやかんや音楽は楽しいぜ、みたいなシンガー・ソングライターの毒気を抜いたような、そんな文章。イギリス、アメリカ、どちらのロックも「自由」との関係は深いけど、イギリスが求めるのは破天荒としての「自由」であって、アメリカは政治的な「自由」の標榜という点で違っている。だから、アメリカン・ロックを語る人たちの節々にはリベラリズムも感じる。アメリカの音楽に影響を受けた日本のミュージシャンもそんなところがある。とはいえ、本場のカントリーは保守派を体現する音楽でもあるわけで、この辺の線引きは複雑になる。

著者とも親しいぽいけど、佐野元春が帯にも推薦しているとおり、そうした界隈のムードだね。それに、サブタイトルにある「風景」なんて、イギリスのロックではほとんど使われないんじゃないかな。風景ってのは、アメリカン・ロックが語られるうえでのキーワードだね。

 

ただ、そうした語り方自体が、アメリカン・ロックの「定説」たらしめているところがぼくがなんともいえないと思うポイントで、これは日本だけでなくて、アメリカにおいてもそう書かれてきたんだね。それが最近の文化論的な研究では、実は我々がフレームとしている人種と音楽性という割り切りは、誤解されている面が多分にある、というものもあるので、やはりレコードはレコードとして、一度こうした表現とは距離を置いた方がいい。そのうえで、自分の語り口ってのがあればベストなんだろうけど、それはなくてもいいよね。パンと茶とアスピリンがあれば生きていけるし。

 

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:映画の感想

 

 

 

イレイザー・ヘッドを劇場で見るというのは、もちろんあの異様な雰囲気を存分に浴びたいというのもあるのだけど、それ以上に、イレイザー・ヘッド公開時の語り草となっている、はじめは数人しかいなかった劇場の客が、口コミで広めていって徐々に中毒者を増やしていった、という逸話を追体験したかった、というのがあるのかもしれない。作品中に流れるP.Iversの作ったIn Heavenを小さな劇場のくぐもった音で体験したら、マニアになってしまう人も多数いたでしょう、というのが容易に想像できるサイケ感。


当時、まるで金のなかったD.リンチが陰鬱ななか何年もかけて撮影したということだけれど、あんな閉所的なセットを組むというだけでぼくなら憂鬱になるし、それともリンチが陰鬱だったからその反映だったのか、それはわからないけれど、それでも妥協せず、息切れしながら駆け抜けてたどり着いたのがイマジネーションのかたまりとも言うべき唯一無比の世界観で、こんなものを作れる人がこれから出てくるのだろうか。恐らくリンチが墓場まで持っていくであろうグロテスクな赤ん坊の謎、あれが未だに解明されないというのがすごいね。3億円事件みたいなもんかな。違うか。

 

イレイザーヘッドはホラーではないけど、おそらくホラー映画を見る人にもファンが多いはず。

ホラー映画は悪夢を具現化したものがほとんどで、イレイザーヘッドも多分にそうした要素が盛り込まれているからなのかな。ただ、イレイザーヘッドで描かれる悪夢はD.リンチの頭の中に湧いたもので、悪夢そのものが現実を一線を画しているにも関わらず、本作は現実ぽい具体化をも拒んでずーっと先を映し出した、そんな見方はどうでしょう。ヘルレイザーはホラーの中でも、ややこちら寄りなのかもしれないね。


そういえば、食事シーンは悪魔のいけにえぽい、とぼくは毎度思っているんですがどうなんでしょう。

JUGEMテーマ:映画の感想

 

 

おショッピングをしていたら、ちょうどおタイムがおムービーをやるってんで、おウォーキングしておシネマに入館。新作邦画見たのなんて何年ぶりかね。結構人いるのかな、有名作のシリーズだし、と思ったら10人くらいしかいないじゃねーかバカヤロー。

 

毎回、アウトレイジに限らず北野作品は作り込むね。原田泰造ら弱キャラが突撃するような、ささやかに思われるシーンが、武率いる命知らず集団を引き立てていて、そうした細やかな配慮が随所にある。


そしてシリーズを重ねるごとに、アウトレイジというのは現実のリアリティではなく、アウトレイジという虚構のリアリティを確立していく。これが本シリーズの恐ろしさだね。

 

テーマ(古いヤクザvsイマドキのヤクザ)は仁義なき戦いと似てるところもあるとはいえ、どちらもリアリティを感じさせる、というのがヒットシリーズの凄みだね。我々には本当のヤクザ社会をいかに反映してるかなんてわからないけど、それを気にさせないパワーがある。ゴッドファーザーとか、あんなマフィアおるんか、と思うけど、あの世界観に没入した人は数多いし、それにマネしたくなるでしょ。アウトレイジも、みんながマネしたくなるようなセリフをいっぱい用意してるもんね。


そして、多くの人が半端に感じたであろう終わり方ってのは、何かを予感させるとか、そういうのとは違って、闘争が永久に終わらぬ円環にあることを示唆しているのではないかしら。そういう意味において、どこで「最終章」を切り上げてもそれは必然であったように思う。

 

 

JUGEMテーマ:映画の感想

 

 

リンチ作品をいくつか上映、ってことで新宿の角川に行ってきたんですけど、映画館で見ると、いいね。今時こんな映画見られませんよと思います。とはいえ当時は相当不評だったそうで、その理由は舞台が入り乱れる難解さにあったとも言われていますが、テレビシリーズの肝はマクラクランと地元警察との軽妙なユーモアあるやり取りにあったわけで、その期待に応えなかったのも大きかったのではないかな。暴力シーンの連続だからかなり重いもんね。


映画館で観ていたら、後ろの座席だからどんな人かわからないんだけど、多分少し変なんだろうおじさんがやたら咳してて(しかも我慢せず、思いきり吸い込んでのでかい咳)うっさいなと思っていたら、たまに声を出して笑うのね。だけど、ぼくはこっちは許容できたんです。なぜかというと、その笑いどころがいわゆる怖がらせるような場面ばかりだったためで、つまり彼が何も好きなときに笑っていたわけではないとわかったからなんです。ある意味では我々よりも自然に、この映画を楽しんでいたといえますね。


ホラーとユーモアが表裏一体であること(基本的にローラの親父が出るシーン)を90年代にこれほど醸し出せたのはリンチが世間の潮流に迎合した仕事をしないからで、だからリンチの作品には時代の臭いを感じさせないんです。個人的行為として映画を撮っていたから、常に芸術として評価されてきたのではないかな。

 

映画を家のテレビで見るのと、映画館で見るのとの違いは、見終わって外に出たときの、隔世感みたいなもの。これを映画館で見て街に戻ると、実はこの世の中、簡単におねーちゃんを捕まえられる、という妄想にとらわれてしまうね。理性の線引きってどこだったかな、とふわふわしながら地下へ潜り、新宿三丁目を去ったのでした。

 

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英語の勉強より、書評の方がとっかかりやすいわな。

 

騒音文化論―なぜ日本の街はこんなにうるさいのか (講談社プラスアルファ文庫)

 

哲学者・中島義道さんの著書ですね。20年くらい前ぽい。

 

<以下は本の概要>

彼は口うるさい哲学者にして、騒音についてもヒジョーに口うるさい。銀座で大音量のファッションショーを見かければ交通機関を止めて抗議し、マイクを使い大声で客に注意を呼びかける駅員がいれば、マイクを取り上げて線路に捨てる。

しかし、彼はいわゆるクレーマーとは違う人種である(この事例だけではとてもそうは見えないだろうが)。それは、彼にとって騒音が文字通り「死活問題」なのであり、なぜかというと、騒音に抗議せず黙っていると人を刺しかねないためらしい。彼はそれほど街のうるささに苛まれており、そして、それに共感しつつ自分のように何も抗議しない人間を「問題意識のレベルが違う」と切り捨てる。彼の騒音に対する態度は、倫理的な問題ではなく、実に個人的な問題として取り上げており、そして約280ページによる自分を省みた考察は、「日本人のからだ」という言葉を軸に、タイトルのとおり文化論へとたどり着く。これによると、街にあふれるアアシロ、コウシロという案内板、注意を促すスピーカー、放送、機械音は、実は大衆が望んでいるものである。だから、誰も抗議をしない。時折「昔の日本は静寂を愛していたのに、嘆かわしい」とのたまう評論家がおるが、それはまったくの間違いである、と指摘する。なぜかというと、日本は1000年も昔から人工的な景色、人工的な音が社会に巧みに溶け込んでおり、これは頑強な建物でウチとソトを分かつヨーロッパ社会とは全く異なるものだ。だから、嘆く必要は何もない。日本人はアメリカに占領されたって何も変わっていないのだから。その中で自分のようなズレた人間はマイノリティであり、多数決=公共においてそうした意見は汲みされない。だから、自分の希望とする、無駄な騒音の排除はまったく不可能なのである、としている。

−−概要ここまで−−

 

ぼくは著者ほど音に敏感なわけではない。苦手な音といえばテレビで、極力つけないようにしている。CSのニュースみたいに、アナウンサーの音声くらいしかしないものならいいんだけど、バラエティ番組のようにひな壇タレントの声と過剰な笑い声、それに畳み掛ける派手なナレーションとサウンド、てのが嫌いで、そういうのは変えちゃう。では街中ではどうかというと、どちらかというと戦わず逃げるタイプなんだね。うっさい連中がいる席に近かったら、もー出ましょ、みたいな。

 

と、音に対する考察を掘り下げたいんではなくて、今回は本書にある「日本人のからだ」との「ズレ」で少し体験したことがあるので書きたいんですね。というのも、以下は今日の話。

 

ADHD等の人が集まるというカフェでのライブイベントに参加した。ぼくはそこに来るのが初めてで、20人ほどの参加者はどれも知らない人ばかり。一人だけ、1年ほど前に別のイベントで会った女性(50代くらい?)の方は、随分元気になっていた。あのときは記憶がすぐに失われるような症状から回復したばかりで、希望を一生懸命に口にしながらも、その淀んだ目には疲労が色濃く残っていた。しかし、この日は血色がよく、自然な笑顔と元気な声でいろいろな人に声をかけていた。もともととても礼儀正しい人だったから、印象がとてもよい。「自分の居場所がたくさんあることがわかって、とても充実しています」と話してくれた。聞いているぼくもとても気持ちがよくなる。

 

別の初対面の女性は40代中盤で、とてもユニークだった。話がどんどん脱線するのだが、必ずネガティブな方向へ転がり、それが笑いに転化していく。お金に困っているため生活保護を受けているとのことだったが、ぼくはそうした人と話すのは初めてだった。とはいえ、生活保護を受けている人が一様に同じ性格なわけではない。生まれや仕事について聞いてみると、まるで西村賢太の私小説の世界のごとき人生を歩んでいるようだった。それでも、彼女は自分の生活を「ああ野麦峠」や「流し」で生きていく演歌の世界観に例え、奴隷にように生きている様を笑いに転じていた。

 

先の中島義道の本では、自身が抗議した相手が自分言葉を使えず「いやー、でも音声を必要としている人もいますし」「自分が決める立場にないんで」といった定型句しか言えない人々の言葉を「世間語」と揶揄しており、その反対に自分の意思を口にできる言葉を「個人語」と表していた。

言うなれば、彼女らの言葉に、社会で刷り込まれた「世間語」は使われていない。自分の言葉(=個人語)で語っていた。こうしたコミュニケーションは、忘れていた言葉の掘り出し方をほんの少し思い出させてくれる。働いていると、自分の思ったことを攻撃的に口にすることは慎まなければならない。やりたいことへの意識が薄れ、通帳の数字が大きくなる反面、いつの間にか季節が移り変わり、言葉も思考もフラットになった、ということには気づいていた。そして、今日はそれが確実に、頭で感じた。これは自分にとって実にはずべきことだと思っているので、なるべく仕事場に近づかないようにしたい、と改めて思った。仕事は、一見クリエイティブなものでも、個人の言語を殺す。だって、クリエイティブな仕事が増えた結果が、この騒音だらけの日本だもんね。

 

で、そのカフェを出て一人で地下鉄に乗ったんだけど、そこにいる人たちの表情というのか、態度みたいなものが、さっきカフェにいた人たちとはまったく違うんだよね。一般的な人は、電車に乗ることがなんでもない。おっさんがスマホで指スライドするだけのパズルゲームやってても恥ずかしいと思ってない。優先席にいて老人が乗ってきても、黙ってればなんとかなると思っている。おそらく、カフェにいた人たちはそうではないだろう。電車に乗るわずかな時間でも、簡単にやり過ごすことはできない。これが「日本人のからだ」とのズレなんじゃないかと、直観的に思ったことだ。

 

ちなみに、ぼくは電車も地下鉄も苦手で、いつ止まるかわからないから水と薬を必ず携帯しているんだけど、止まったときは汗だくになって深呼吸をして気持ちを落ち着かせているわけ。でも、周り見たらみんななんでもないんだよね。お前たちはこのまま1時間も2時間も立ちなっぱなしになるかもしれないのに、何平然としているんだ、と思うんだけど、それがプレッシャーになるからあまり考えないようにしている。大多数の日本人は、日々使用している電車が止まることも、これだけ多くの人が乗ることにも何も文句をつけない。東京の中でもわずかな面積の23区に、周囲から人間が集中するだけでも異常なのに、電車のラインは同方向に1本しかない。だからすぐに止まるし、いつも満員になる。それを当たり前のように受け止めている社会人は、本当にやばいと、本気で思っている。人を殺しまくっている車を許容する社会にも、そう思うね。それは、車がなければ物流が回らないし、仕事が減ったらもっと死ぬ人がいるだろ、としたり顔で言う人がいるかもわからんが、じゃあそう言うべきなんだよね。ゼリーで人が喉詰まらせて死んだときに、車の方が人を殺してるけど、輸出産業とか、雇用の面とかで必要なんでこっちは指導しません、て。

 

名優・仲代達矢は、小学生のときに終戦を経験した。そのとき、あれだけ軍国日本を賛美していた大人たちが一転、天皇を批判し、平和主義を唱え始めた。それを見た彼は、おとなを信用しなくなったという。おとなのズルさを見抜き幼少からズレていった彼が、社会の潮流を捨てて自分の信じる作品を演技する役者・俳優となったことは、結果的にではあるが因果なものだと思う。

 

タイトルに私は大衆とズレている、というような表現をしたもんで、思い上がっとる、こういうのをうぬぼれ屋というんじゃボケ、と言われかねないのだが、なんかあんまり謙虚なのも面白くないよね。夜中だし。

 

JUGEMテーマ:書評

 

忙しくて更新をサボった。サボタージュ。と、連想した言葉を書いて、ついでにサボタージュてWhat?と思い検索したら、サボるとサボタージュて同じ意味ですって。

 

サボタージュとは

労働組合の争議戦術の一つ。職場にはつくが、仕事の能率を下げて経営者に損をさせ、紛争の解決を迫る方法。怠業。サボ。

 

サボることは闘争である。

 

しかも、これ戦後から流行ったのかと思ったら、大正時代にはもう使われていたって。外国語+ら行五段活用の歴史は古いのです。

 

で、今回はまた本の感想になるんですが、というかまだ読み終わってないんですが、いまパラパラーとこんなの読んでます。

 

 

 

2005年だから、ちょっと前ですけど。著者の岩谷徹さんという人は、パックマンの生みの親ですね。

 

パックマンて、日本国内でももちろん有名ですが、我々の認識よりアメリカではとんでもない認知度を誇っているんだね。なんつっても、パックマンフィーバーてレコードが、当時ビルボードで9位までいってるんだから。インベーダーより少しあとだけど、スーパーマリオよりもはやく生まれた、超画期的なゲームだったのです。

 

これはゲーム制作の現場で働くひとたちに向けた内容だから、無関係なぼくは飛ばしながら読んでるだけなんだけど、著者とゲストが対談する章がありまして、その中のひとつがマリオの生みの親である宮本茂さんなのね。で、面白いと思った箇所があるので引用。

 

宮本:私たちの時代は、釘刺しやビー玉が遊びの原点ですが、いまのクリエイターはゲームが遊びの原点ですから、ゲームを元にゲームをつくっている感じは拭えませんね。

 

岩谷:……昔、ゲームが新鮮で珍しかったときや、ゲーム以外の遊びが共存した頃ならば、全精力をゲームへつぎ込ませるような内容でも良かったと思うのです。でもいまは、短い時間の中で自分の好きなペースで遊べるようなゲームでないと、やってもらえないし、評価されないようになっていると思います。寂しいですが、そういう時代なのですね。

 

 

宮本茂さんは、任天堂がファミコンをヒットさせる前のおもちゃ制作から名を馳せていた横井軍平さんの薫陶を受けており、テレビゲームが一部マニアが競争するための開発を続けたり、ただグラフィック性を高めるたりするだけの業界事情に苦言を呈している。このことは横井軍平さんをインタビューした名著で横井さんが熱く語っているから、気になる人はぜひ読んでほしい。

 

 

パックマン本の対談でも、横井軍平さんの本でもなんだけど、テレビゲームを作るときに、過去のテレビゲームのアイデアだけを並べたのでは面白くない、ということなんですね。日常に目を向ければ、面白くなるアイデアは転がってる野田。byニュートン

 

で、宮本さんはこの対談でもうひとつ語っていたことがある。それは「ゲームというものづくりにマーケティングは必要ない」ということ。驚くべきことに、宮本さんは本当にマーケティングをせずゲームを制作していくらしい。もちろん、営業からマーケティングの結果を提示されることはあるらしいんだけど、それを無視して実際にでき上がったものを営業に説明すると、今度は営業に「これじゃ売れない」と言われる。でも、クリエイターはそれでいい、とのことらしい。ゲームは2年後を見据えて開発するのに、マーケティングなんてあてにならないわけだね。

 

電車に乗ってると、読んでるだけで金持ちになれそうな啓発本の広告がいっぱい掲載されているよね。「仕事に生かすアイデアの出し方」とか、直球のものだと「金持ちのなり方」みたいなね。あの、あなたの思考を変えよう、みたいなのを読んで、本当に変わる人っているのかな。あれで変わる人ってのは元がすっからかんだから変わるんであって、変わらない人は目的まで思考パターンが確立されてるくらい頭がまともなんだから、別にそのままでいいと思うんだよね。

 

ちょっと寄り道したけど、このアイデアってワードは実に魅力的で、出すのは無料だし、いいのが出たら一攫千金じゃん、ってことで、どこの業界でも、どの企業の偉い人でも「うちの衆からぽんぽんアイデアが出りゃな」と思っているはず。でも、いいアイデアが出る人は会社なんている必要ないよね。発明して個人で特許取ればよろしい。

 

いまのゲームって全然わからないんだけど、対談で岩谷さんが言っている「短い時間の中で自分の好きなペースで遊べるようなゲームでないと、やってもらえない」というのは、スマホゲームがまさにそうだね。目標設定としてはゲームボーイのときと同じだし、誰でも簡単にプレーできるから、一見ゲームの原点回帰のように見えるけれど、実はまったくの逆で、そもそもお金をかければかけるほどゲームが進行する、逆に言えばお金をかけないと次へ進めないのだから、ゲーム性云々の話ではない。つまり、もはやゲームですらないと思っている。その中でゲーム会社が競争しているのは、いかに人気の声優を使い、そして性的指向の強いキャラデザにし、あとはたくさん課金させる導線を作る、という点だけ。つまり、マーケティングがものをいうようになっているんじゃないかな。

 

ゲームでしか遊んでこなかった世代がゲームをつくるようになった……これ、ほかの業界とかにもありそうだね。時代劇、映画、アニメ、テレビ番組……。これ、なんか面白くなくなったな、と思ったら、バックグラウンドにそういうカラクリがあるのかもしれない。