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JUGEMテーマ:書評

 

◯フランケンシュタインとSF小説

「フランケンシュタイン」は、あの怪物の名前ではなく、それをつくった科学者の名前である。

ある程度物知りな人ならば知ってることなので20へえくらいだと思うが、小説やホラー映画に興味がない人ならば、こう勘違いしたまま年老いてゆくだろう。これはきっと、藤子・F・不二雄「怪物くん」に登場する「フランケン」が刷り込まれているためか、はたまた古典映画「フランケンシュタイン」のパッケージに、デカデカとあの怪物が採用されているせいかもしれない。

 

「フランケンシュタイン」は単にホラー小説であるだけでなく、SF小説の元祖としても有名だ。つまり、怪物が「科学」によって作り出されたところが大きなポイントなのである。

しかし、単に科「科学」が登場するだけではSF小説の傑作にはなれない。SF小説には、何らかの批評性がなくては読み手の心は踊らない。手塚治虫「鉄腕アトム」は、科学を悪用して世界を支配しようとする連中を、正義の味方であるロボット・アトムが退治していく。つまり、人間は科学を良いことに使うこともあれば、悪いことに使うこともある。核戦争の脅威によっても、我々は科学の進歩が世界を破滅させるおそれがあることを存分に知っている。SFは、こうした重いテーマを含むことによって批評性を高めてきた。

 

SF小説の古典と目される「フランケンシュタイン」はどうか。イギリスの女性作家であるメアリー・シェリーによって書かれた本作は、科学批判よりずっと根深い、道徳・倫理的な言説の「弱さ」を見事にさらけ出した、傑作である。

 

 

◯読み手は哀れなフランケンシュタインを軽蔑する

「フランケンシュタイン」は文庫で400ページ以上ある長編だ。そのため、物語の核心に重点を置いて説明する。

人間関係に恵まれ、学もあるフランケンシュタインは、伝統的な研究にそぐわない独自の科学実験により、大きく力があり知恵もある怪物を作り出してしまう。その怪物はすぐに逃げてしまい、フランケンシュタインは落ち着かない日々を過ごす。

すると、フランケンシュタインの周囲の人間が殺され、親戚が冤罪のために死刑にされる。ある日、フランケンシュタインの前に怪物が登場し、自分が殺したことを告白する。怪物は、本来優しい性格の持ち主であった。どうにかして心優しい人間の家族と仲良くなりたかったが、ある日その姿を見られ、暴行を受ける。逃げる道中でも、容姿が醜いために人間たちから暴力を受け続けた。溺れていた子供を助けたが、その子供には悲鳴を上げられ、駆けつけた大人に殴られた。

そこで怪物は、哀れな自分を生み出したフランケンシュタインへの憎悪に気づく。そして、復讐として周囲の人間を殺し続ける。

フランケンシュタインは逆に怪物への憎しみを募らせ、人々に訴えるが、気が狂ったと思われて相手にされない。ついにフランケンシュタインの婚約者が殺され、怪物を追って北極までたどり着いたが、助けられた船の中で病死してしまう。

 

小説の中では、フランケンシュタインの怪物に対する怒りと、怪物の哀れみ・そして復讐とがぶつかり合うような、切迫した描写が続く。フランケンシュタインは言う。

「人を殺して喜ぶような悪魔を地上に野放しにするなど、金輪際願い下げだ!」

しかし、本書の感想をネットで見ると、ほとんどの読者はフランケンシュタインに同意しない。つまり、人殺しの怪物に執拗に嫌がらせをされているフランケンシュタインは、同情に値しないということだ。

 

怪物は、フランケンシュタインにこう言い放つ。

「フランケンシュタイン、おれの話を聞け。おまえはおれを人殺しと非難するが、それでいて自分がつくったものを破壊しようとし、良心の呵責を感じない。まったく人間の永遠の正義とは、大したものだ」

 

親戚や婚約者を殺されたフランケンシュタインからすれば、その犯人である怪物を誹り、そして闇に葬ろうとするのは当たり前のことであり、正義にかなっているように見える。だが、怪物がなぜ凶暴になったのかをたどれば、フランケンシュタインによる、正規ではない実験に原因がある。つまり、身勝手なのは怪物なのではなく、フランケンシュタインであり、怪物はむしろ救済されるべき存在である、ということだ。ここは本作の批評性を考えるうえで、非常に大事なポイントである。なぜならば、ここで倫理・道徳の論理的な弱さがさらけ出されているからだ。

 

◯「人を殺してはいけない」という道徳が通用しない?

「人を殺してはいけない」というテーゼは、基本的には倫理的・道徳的な観点によって結論付けられる。「自分がされて嫌なことはしない」「人を殺すとその家族が悲しむ」などがそれだ。本作品においては、親戚や婚約者を殺されたフランケンシュタインが怪物を憎み、その犯人である怪物を消し去ろうとするのは当然の思いのように思われる。しかし、読者はそう捉えない。すべての根源であるフランケンシュタインが怪物を憎み、悪魔だとか人殺しだとか罵るのはお門違いでり、因果応報だ、と。つまり、フランケンシュタインによる「怪物であろうと人を殺してはいけない」という正論が、まったく効力を持たないのだ。そして、その思いは、力で歴然の差がある怪物によって蹴散らされ、人間と人間、一対一の対決を余儀なくされることになる。

 

これは、現代の処罰感情にも言えることだ。重大犯罪を巡り、被害者家族だけでなく世間が死刑を声高に叫ぶことがある。我々は死刑をめぐり「人を殺してはいけない」という絶対的だと思われた道徳を、全く守っていない。このフランケンシュタインと同じように「犯人は殺されてもやむを得ない」と考えることがある。道徳や倫理は、絶対的なものではないのである。

 

私はどれだけ人を殺した犯人も、重大殺人を犯しながら反省しない犯人も、死刑にすべきではない、と言っているわけではない。たしかに死刑そのものには疑問があるが、被害者家族の処罰感情は十分に考慮されるべきだし、そうした犯罪を減らすための刑罰を考えるべきだと思う。だが、世の中の人々が安易に口にする「死刑にしたらいい」という言葉の裏には、倫理や道徳を超えて、自分自身を洞察し続けなければいけないテーマが存在する。それが「フランケンシュタイン」で描かれているテーマだと言えるだろう。

 

また、本書の中には、冤罪にかけられた親戚が「私が殺しました」と自白してしまうシーンがある。結果的にこれが証拠となって死刑が執行されるが、冤罪を課せられた人の心理として「自白してしまう」というのは、1820年頃のイギリスにおいても社会問題となっていたことが伺える。

 

人を死刑にすべきか否か。その情報を持ち合わせながら、我々はいまだに正しい判断を下せずにいる。